今週の一冊『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』
(本日のお話 2934字/読了時間4分)
■こんにちは。紀藤です。
昨日は大学院の授業。
またその後テストをはさみ、
大学院の同期、先輩、先生方との
オンライン懇親会でした。
*
さて、本日のお話です。
毎週日曜日は、お勧めの一冊をご紹介する
「今週の一冊」のコーナー。
今週の一冊は、
==========================
『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』
中島 義道(著) (PHP新書)
==========================
です。
■大学院の授業で
「対話について学ぶ中で
紹介された一冊。
私たちは普段、
コミュニケーションを通じて
仕事や日々の生活を過ごしていますが
”言葉を使って他者と対峙する時に、
どのような姿勢でいるのか?”
について、
さほど自覚的ではないのかも
しれません。
■例えば、です。
”仕事で打ち合わせをする”
とします。
当然打ち合わせなので、
アジェンダは決まっていて
なんとなくその通りに進むでしょう。
しかし、
・なんとなく脇道に反れて
世間話的なものをすることもあれば
・物事を決めるために時に
意見がぶつかって緊迫感が生まれることもあれば
・意見を広げるために、
幅広く意見を持ち寄って自由に会話する
こともあり、
”打ち合わせ”という中でも、
様々な空気感が生まれ、
山の天気のごとく変化をします。
その中で、
「議論」と「対話」と「雑談」の違い、
それぞれが持つ、
意味や重たさを定義づけて、
モードを意識して話すひとが、
どれほどいるだろうか、
ということ。
※ちなみに、
「対話」=
雰囲気:自由なムード
話の中身:真剣な話し合い
「議論」=
雰囲気:緊迫したムード
話の中身:真剣な話し合い
「雑談」=
雰囲気:自由なムード
話の中身:たわむれのおしゃべり
という定義付け方もあるようです。
(※参考:中原淳.長岡健(2009)『ダイアローグ対話する組織』(ダイヤモンド社)
■さて、少し
「言葉を交わすこと」について
考えてみましたが、
今回ご紹介の一冊
『対話のない社会』では、
”日本的文化が
<対話>を圧殺している”
と警鐘を鳴らしています。
それは、いわゆる
”日本的な思いやり・優しさ”
”相手や空気を慮る和の精神”
のごときものが、
「湧き上がる率直な疑問」
「違うと思った時に違うと言えること」
「相手との意見の違い・対立に向き合うこと」
を妨げているのではないか?
と言うわけです。
■「思いやり」というのは、
実に美しい言葉で
否定できなかったりします。
しかし、著者は、
”「思いやり」という名の暴力がある”
というのです。
その
「思いやり」「配慮」「察する」
などの言葉、姿勢は
実は自分の「ズルさ」「卑怯さ」を隠す、
隠れ蓑になってはいないか?
と問うのです。
■例えば、会議でのワンシーン。
自分が特定の誰かの発言にたいして
「よくないな」と否定的に思ったとしましょう。
しかし、思うのです。
「自分がここで本音を言うと
相手が傷つくかも知れない」
と思ったとして、
「後で言おう」等の配慮をし
何も言わなかったとします。
それはパッと見、
”思いやり”があるように
見えるかもしれない。
しかしながら、
その背後には別の思いがないだろうか?
・相手からの反撃を食らうかもしれない
・せっかくまとまりそうな空気なのに
KYなこと言ったら場が凍ると自分がイヤだ。
・というか、相手が損するだけだから
面倒くさい事に巻き込まれたくないし
発言しないほうが得だ。
などなど。
■誰も見ていないところでは、
席を譲らずに寝たフリをするのに、
上司が近くにいたら
「どうぞどうぞ」といい人ぶる
都合のよい思いやりが、
そこにはないだろうか?
自分を守ろうとするズルさが
潜んではいないだろうか。。。
そのように著者は、問うのです。
■本当に相手のこと、全体のことを思い、
そして自分の本心に誠実なら、
あえてズバリと確信をついたほうが、
良いのかも知れない。
そこで、違う意見が来たとしても、
そこから歩み寄り、対話を重ねるほうが
実は建設的な場になるかもしれない。
ただ、なんとなく
”言えない空気”があり、
”言わない方が得”という空気もあり
そうして、
全体として受け身になっていく。
それは、
「本当はあのときこう思っていた」、
という場の声、自分の内なる圧殺し、
短期的な「得」をする代わりに
大切な何かを失っているかもしれない。
■失ったものとは、
・「こう思う」と純粋に思い、
他者に発言する自尊心
かもしれないし、
あるいは、自分と違う人生を歩み、違う視点を持つ
他者の存在を向き合わないことで
・他者への尊重・他者とのつながり
が失われているのかもしれません。
■著者は、こう言います。
『<対話>とは、全裸の格闘技である』
、、、と。
そしてこう続けます。
”対話とは、全裸で行われた
古代ギリシャの格闘技に似ている。
(中略)
身分・地位・知識・年齢等々、
ありとあらゆる「服」を脱ぎ捨て、
全裸になって「言葉」という武器だけを手中にして、戦うこと
それが正真正銘の<対話>である。”
語られている内容に向き合う
議論に勝ちたいゆえに、
相手を打ち負かそうとするのは
<対話>ではない。
対立を避けようと、
純粋な疑問や考えを投げ込まないことも
<対話>ではない。
相手と向き合いつつ、
自分が放った言葉にも責任を持つ。
その対話という言葉には、
”その場しのぎの優しさ”
よりも、どことなく
”格闘技”
という真剣さに言葉に似たものを感じます。
■もちろん、
常に<対話>をしましょう、
というわけでもありません。
雑談も、
決めるための議論も、
もちろん必要。
ただ、時には
言葉を大切にして
<対話>をしたらどうか。
お互い歩み寄って
理解し合えない難しさがある中でも
相手の視点を、自分なりにお互いが理解し、
そして新しい現実を作り出すために、
<対話>をもう数%でも
社会の中で増やしていくこと。
このことを
”日本的文化における
思いやり・優しさ”
にもうちょっとだけ付け足すことで
より良い世の中になるのではないか、
、、、そのように著者は語り
私も、大変共感しました。
■読んでいて、
私(紀藤)の率直な感想として、
「著者は、看板とか
駅のアナウンスとか違法駐車とか、
色んなことに怒っているなあ・・・」
とその感情的とも思える筆致に、
少し反感も覚えつつ読んでいましたが、
読み進めるうちに、
「それってちょっと
おかしいんじゃないの」
「自分にはよく
わからないんだけどなあ」
「それってどういうことですか」
と疑問を持たずに、
ただただ受け入れてしまう怖さ、
そしてそうなっている自分に
向き合わされた気がしました。
対話とは全裸の格闘技、まさに、です。
(以下、本の紹介です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「何か質問は?」―教師が語りかけても沈黙を続ける学生たち。
街中に溢れる「アアしましょう、コウしてはいけません」という放送・看板etc.
なぜ、この国の人々は、個人同士が
正面から向き合う「対話」を避けるのか?
そしてかくも無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか?
著者は、日本的思いやり・優しさこそが、
「対話」を妨げていると指摘。
誰からも言葉を奪うことのない、
風通しよい社会の実現を願って、
現代日本の精神風土の「根」に迫った一冊である。
※「BOOK」データベースより
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
優しくて、配慮してしまう、
空気を読んでしまう方にこそ、
読んでいただきたい一冊。
きっと衝撃を覚えること、
間違いなしです。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
==========================
<今週の一冊>
『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』
中島 義道(著) (PHP新書)
==========================