「自分で、見て、聞き、体験すること」で悟りを知る
(今日のお話 2135文字/読了時間2分半)
■おはようございます。紀藤です。
先日は2件のアポイント。
また朝8時からは「7つの習慣」を、
朝活勉強会として行っている大手出版社様に
お客様と共にご見学。
継続する力の大切さを、改めて肌で感じました。
Tさん、いつもありがとうございます。
そして、お越し頂いたN様、I様、
ぜひ社内でも定着化の取り組み、
チャレンジしてみてくださいね!
応援しております。
■さて、
一昨日のお話。
「今週の日曜日にMr. Childrenのコンサートに行きました!」
と編集後記に書いたところ、
「私も行きました!」と何人の方から、
ご返信を頂きました。
私はそんなにミスチルの
熱烈なファンではなかったのですが、
今回のコンサートで心底感激してしまい、
ますます好きになってしまいました。
今日は、そんなミスチルの櫻井さんの
MCのお話から得た気付きを、
共有したいと思います。
■コンサートの合間に、
アーティストがお話する通称MC(エムシー)。
ミスチルの櫻井さんが、考えさせられる
素敵な「愛のお話」をしてくれました。
櫻井さんは言います。
「愛って色々な形があると思う。
それを考えさせられる、僕の好きな、
ブッダのお話があるんです。
ちょっと紹介させてください」
こんな始まりから、
櫻井さんは「仏陀のケシの実」という
お話を教えてくれました。
それは、こんなお話でした。
『昔、あるお母さんがいました。
彼女は、幼子を亡くし、悲しみの末、
身も心も壊れんばかりでした。
彼女は子供の死を受け容れられず、
死んだ赤子を抱いたまま、
”この子を生き返らせて。
この子を どうか生き返らせて”
と会う人ごとに哀願をかさねました。
そんな彼女が、途方に暮れた最後に、
ブッダを訪れ、「生き返らせて」と懇願した。
すると、ブッダは、その母にこう言ったんです。
「いいでしょう。
生き返らせるためには、この村の家々をまわって、
ケシの実をもらってくればよいです。
ただし。
これまで一度も亡くした人を出したことのない家のケシの実でなくてはいけない。
それをもらってわたしの所に持ってきなさい。
そうすれば、赤子は息を吹き返すでしょう」
その母は勇んで、家々を回りました。
我が子が生き返ると聞いた彼女は必死だった。
しかし、訪問をうけた家の人たちは、悲しく首を振るだけだった。
どの家を回ってもケシの実は手に入らなかった。
なぜなら、亡くした人を出したことのない家は、一軒もなかったから。
その時、母ははっとしました。
愛するものを喪った悲しみは自分だけではない。
これまで、みなが味わってきた悲しみで、
避けることができないものなんだ。』
※参考エピソード:「ゴーダミの悲しみ」
曹洞宗 貞昌院より引用
櫻井さんは、このお話を、
”愛の意味”に繋げて語りました。
「もしかすると”愛”とは生きる人だけに捧げるものでなく、
いなくなってしまった人に捧ぐ”愛”もあるのかもしれない」
そんな深い語りと共に、
心に沁みる次の歌に入っていきました。
■このお話を聞いて、
こういった話を歌に繋げる、
アーティストとしての深みに感銘を受けるとともに、
全く別のことも感じたのです。
それは、
「ブッダは、すげえな・・・」
ということ。(失礼)
悲しみにくれた母親に、
「皆が悲しみを抱えているんです。受け入れましょう」
と言葉でいったとしても、
きっと母親は納得できなかったと思うのです。
そんなことは判っている、
でも辛くて辛くてしかたない。
だからなんとかしたい。
そう切望する母親が、
その当たり前のような真実に気付くためには、
自らが”見聞きする”ことしかなかった。
どの家にも
「亡くした人を持つ悲しみを抱えている」
という事実を、
母親自身が肌で感じるしかなかったわけです。
それを、きっと仏陀は
「ケシの実をもってきなさい、ただし亡くした人が一人もいない家から・・・」
と伝え、そして
【自分で、見聞きする】
ことで、真理を悟らせたのではないか、
そんなことをこのお話から感じたのです。
■そしてこの”気付きのプロセス”は、
多くのことに通ずる原則ではないか、
そのように思うのです。
例えば、
「貧困は悪だ」
「格差社会は問題だ」
という社会問題もそうだし、
また、
「自分から動くとよい」
「目標を持つべき」
などという自己啓発的な話もそう。
多くの場合、
「そうだよね」
「その話ね。わかるよ」
と皆が思い、
きっと否定はしないことだと思うのですが、
本当に”はっとした”というレベルで
心の奥深くまで、深く納得しきっているかと考えてみれば、
必ずしもそうではない、と思うわけです。
結局は、
【自分で、見て、聞き、体験する】
というように、
自らの肌で感じる機会がなければ、
「ケシの実を探した母親が気付いたレベル」で
深く納得する、あるいは悟ることはできないのではないでしょうか。
知識は溢れている世の中。
知るだけならいくらでも方法はあります。
でも、それを痛みと衝撃を持って、
腹に落とすためには、やはり
【自分で、見て、聞き、体験する】
というプロセスに勝るものはないのではないか、
そのように強く感じた次第です。
だいぶ、冒頭の櫻井さんのお話から飛びましたが、
ご参考になれば幸いです。
外の世界に出ること、
自分で見ること、大事です。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今日も皆様にとって素晴らしい1日になりますように。