母の手は、補助輪に勝る
■おはようございます。紀藤です。
先日は”第二領域活動”デー。
緊急じゃないけど、重要なことに、
3時間ほどとって取り組んでおりました。
いずれ皆さまにもご共有しますが、
とても面白いことになりそうです。
午後には、増収増益を積み重ねている、
とあるIT企業の方と教育についてディスカッション。
順調に成長しているように見えても、
やっぱり悩みは色々あるものですよね。
(Tさん、ありがとうございました!)
■さて、そんなディスカッションの中で、
「人を育てる」
ということをテーマに盛り上がったのですが、
その中で「なるほどな」と思ったことがありました。
本日は、その話を共有したいと思います。
■しばしば
”人を効果的に育てるためにはサポートが大切”、
と言われることがあります。
大人だって、知らないことや、
出来ないことを身に付けていくのは、
骨が折れるもの。
だからこそ、
「研修」とか「勉強会」とか「同行営業」
というサポートがあるのでしょう。
■とはいえ、
「このようなサポートなら大丈夫だろう」
(研修やったから、後は一人で勝手にできるだろう)
と言えば、実は多くの場合、
そんなに上手くいくことはありません。
恐らく、それでは不十分。
テニスの本を読んだだけで、
上手にボールが打てないように(→私)、
ゴルフのスイングを一度教えてもらっただけでは、
いつもスライスしてしまうように、
こうすればよい、という”助言”だけでは、
足りないのだと思います。
■では、どのようにすれば、
人を上手に育てられるのでしょうか。
これも諸説ありますが、
私が思うに、
【「一人で出来る!」という手ごたえを得るまで、寄り添う】
というのが、一つのポイントではないか、
と思うのです。
新しいことにチャレンジをするのは、
それが些細なことに見えても、少なからず勇気がいります。
挨拶ができない人が、
頭では「挨拶をしたほうがいい…」とわかっていても、
ちょっと照れくさかったり、返事がなかったらどうしようと思い悩んだりして、
喉から声が出ないように、
大人でも、「自分が持っている殻を破り捨てること」とは、大変なようです。
■それはまるで、
「子供が、初めて自転車に乗るとき」
のごときことかもしれません。
始めは、漕ぎ方もわからない。
皆スイスイ乗るから、簡単そうに見えるけど、
いざ足を放すと、すぐ倒れそうになる。
補助輪が付いていたら乗れたのに、
なくなったら、全然乗れない。
勇気を出して漕いだら、膝を擦りむいた。
そして、何度かこけて、
膝も肘もあざだらけ。
そんな状態が何日も続くと
「もう乗らない」「乗りたくない」と思えてきた・・・
・・・と、いうように、
ちょっとオーバーな例えかもしれませんが、
何かを初めて挑戦し失敗して、
「辞めてしまう」 or 「続ける」
という出来事の間には、このような揺れ動く気持ちが、
少なからずあるように思うのです。
■と、するならば、
「人を育てる」という立場の人は、
どのようなサポートが必要なのか。
先ほどの自転車の例を出すならば、
「補助輪を付けたから、後は乗れるまで自分でやりなさい」
ではなく、
子どもが自ら自転車に乗れるように、
補助輪を外した後も一定の期間は後ろからそっと支えてあげる。
子どもに、スピードに乗る爽快感、
喜び、自分で出来るという確信、
それを次第に身に付けさせてあげながら、
徐々に手を放していき、
「(後ろを)持ってるからね、持ってるからね!」
といいながら、絶妙なタイミングで、
手を完全に放し、一人で漕がせてあげる。
そうして、一人で乗れるようになった後は、
「乗れる喜び」「出来た達成感」「自信」
によって自ら上達のステップに入ることができる。
これが、
「熟達への効果的なステップ」
ではないか、と思うのです。
■ですから、
もし誰かを「より効果的に育てよう」
「全力で変わるサポートをしよう」と考えるのであれば、
【補助輪をつけて終わり】(一回教えたから、あとは自分でやりなさい)
ではなく、
【母の手のサポート】(出来る手ごたえを感じられるまで、支えてあげる)
という意識で行うことが、
人を育てる人にとって、
とても大切なことではないか、
と思うのです。
■私たちの行っている、
「リーダーの4つの役割」
「第8の習慣」という研修においても、
「リーダーは、メンバーの可能性と能力を解放する人である」
というように言い、そのためには、
継続的な対話やサポートが大事であると伝えています。
人を育てる立場にある人は、
【母の手 > 補助輪】
という意識を、どこかで持っておくと、
元気よく育ってくれるのかもしれません。
最後までお読み頂き、誠にありがとうございます。
今日が皆様にとって、素晴らしい1日になりますように。