努力の上に 辛抱という棒を立てろ
■おはようございます。紀藤です。
本日、ようやく退院の日になりました。
(まだ病室ですが・・・苦笑)
約10日間の入院生活でしたが、
普段はできない、本を読むに読みまくるという、
充実した時間を過ごさせて頂きました。
喉の奥を見てみると、
かつて扁桃腺があったところが窪んでおり、
そして白いカサブタがはっていて
(ちょっと気持ち悪い感じになっていますが)何だか生まれ変わったような感じもしています。
師走も残りわずかですが、
楽しく頑張りたいと思います。
■さて、本日のお話です。
素晴らしいお話を提供されている、
月刊「到知」より、ある親子の胸が熱くなるお話を、
一つご紹介いたします。
少し長いですが、とてもいいお話なので、
お時間があるときにぜひ読んでみてくださいね。
<努力の上に 辛抱という棒を立てろ>
私の人生を支えてくれた父親の言葉 桂小金治(タレント)
ところで、この頃(10歳頃)、僕にとって忘れられない出来事があります。
ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。
無理だと知りつつも、家に帰ってハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。
すると親父は、
「いい音ならこれで出せ」
と神棚の榊(さかき)の葉を一枚取って、それで「ふるさと」を吹いたんです。
あまりの音色の良さに僕は思わず聞きほれてしまった。
もちろん、親父は吹き方など教えてはくれません。
「俺にできておまえにできないわけがない」
そう言われて学校の行き帰り、葉っぱをむしっては一人で草笛を練習しました。
だけど、どんなに頑張ってみても一向に音は出ない。
諦めて数日でやめてしまいました。
これを知った親父がある日、
「おまえ悔しくないのか。俺は吹けるがおまえは吹けない。おまえは俺に負けたんだぞ」
と僕を一喝しました。続けて、
「一念発起は誰でもする。実行、努力までならみんなする。そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ」
「一歩抜きん出るには努力の上に辛抱という棒を立てるんだよ。この棒に花が咲くんだ」と。
その言葉に触発されて僕は来る日も来る日も練習を続けました。
そうやって何とかメロディーが奏でられるようになったんです。
草笛が吹けるようになった日、さっそく親父の前で披露しました。
得意満面の僕を見て親父は言いました。
「偉そうな顔をするなよ。何か一つのことができるようになった時、自分一人の手柄と思うな」
「世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。錐(きり)だってそうじゃないか。片手で錐は揉めぬ」
努力することに加えて、人様への感謝の気持ちが生きていく上でどれだけ大切かということを、
この時、親父に気づかせてもらったんです。
翌朝、目を覚ましたら枕元に新聞紙に包んだ細長いものがある。
開けてみたらハーモニカでした。
喜び勇んで親父のところに駆けつけると
「努力の上の辛抱を立てたんだろう。花が咲くのは当たりめえだよ」
子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。
あまりに嬉しいものだから、お袋にも話したんです。
するとお袋は、
「ハーモニカは三日も前に買ってあったんだよ。
お父ちゃんが言っていた。あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」
僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。
いまでもこの時の心が震えるような感動は、色あせることなく心に鮮明に焼きついています。
かつての日本にはこのような親子の心触れ合いが息づいていたんです。
(月刊『到知』より引用)
■ 親とは。教育者とはいかにあるべきか。
この父の全ての行動・言動に、たくさんの学びがぎっしりと詰まっているようです。
「いい音ならこれで出せ」と、”物を買って”というお願いを学びの機会にかえ、
「俺にできておまえにできないわけがない」と、息子の可能性を徹底的に信じる。
「一念発起は誰でもする。実行、努力までならみんなする。そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ」
継続することの大切さを伝え、息子の消えかけた想いに、もう一度火を灯す。
父として、息子の可能性を信じ、息子自身に自分自身の力を気付かせる。
これこそ、”人を育てる”ということではないか、と感じます。
■部下や息子に指示や管理をし、「これをせよ。あれをせよ」とする方が、
回り道をさせず、短期的な結果も出やすいかもしれません。
しかし、本当の”教える”とは何なのか。
それはこの父が行ったように、「自分自身で出来る」と気づかせることなのでしょうね。
リーダーシップとは、「指示・管理」ではなく、「相手を導き、その力を解放すること」。
私達も普段そんなお話をお伝えしていますが、その真髄を見たような気がしました。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
今日が皆様にとって、素晴らしい一日になりますように。