福沢諭吉は言った。「”学問”とは、実生活に役に立つものであるべし」
(本日のお話 1754文字/読了時間2分)
■おはようございます。紀藤です。
昨日は2件のアポイント。
ならびに社内での打ち合わせなど。
夜は、ひたすら読書でした。
*
さて、本日のお話です。
少し前に『文明論之概略』(著:福澤諭吉)を読んで
その内容の深さに感銘を受けました。
と、同時に、福澤諭吉とは、
あらゆる日本人がこんなにたくさん目にするのに
(1万円札で何度も顔を合わせているのに)
彼が何をしたのか、どんなことを考えていたのか、
全然理解していないことに気が付きました。
それから、今更ながらではあるものの、
福沢諭吉の『学問のすすめ』を読んでおります。
また、この話は改めてお勧め本として
ご紹介したいと思いますが、本日はその中から、
特に感銘を受けた部分をご紹介したいと思います。
タイトルは、
【福澤諭吉はいった”「学問」とは、実生活に役に立つものであるべし”】。
それでは、どうぞ。
■『学問のすすめ』。
1872年、明治維新が起こって、
明治になった4年後に発行されたこの本。
何と当時の人口3000万に対して、
340万部という驚異的な発行部数を記録した本。
国民の10人に1人が読んだ、
と考えると、その影響力の広さと深さは、
計り知れないものがあります。
■このタイトルの通り、
“「学問」の大切さ”について書かれているのですが、
その中で、
「“役に立つ学問”とは何か?」
について、このような話がありました。
(以下、引用です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここでいう学問というのは、ただ難しい字を知って、
わかりにくい昔の文章を読み、また和歌を楽しみ、詩を作る、
といったような世の中での実用性のない学問を言っているのではない。
たしかにこうしたものも人の心を楽しませ、便利なものではあるが、
むかしから漢学者や国学者の言うことは、それほどありがたがるほどの
ことでもない。
(中略)
いま、こうした実用性のない学問はとりあえず後回しにし、
一生懸命にやるべきは、普通の生活に役に立つ実学である。
たとえば、いろは四十七文字を習って、手紙の言葉や帳簿の付け方、
そろばんの稽古や天秤の取り扱い方を身につけることをはじめとして、
学ぶべきことは非常に多い。
(中略)
こういった学問は、人間にとって当たり前の実学であり、
身分の上下なく、みなが身につけるべきものである。
この心得があった上で、士農工商それぞれの自分の責務を尽くしていく
というのが大事だ。そのようにしてこそ、それぞれの家業を営んで、
個人的に独立し、家も独立し、国家も独立することができるだろう。
引用:現代語訳『学問のすすめ』(著:福澤諭吉/訳:齋藤孝)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり、
「役に立つ学問とは、”実用的な学問である”」
ということですね。
当日の「役に立つ」とか「実用的な学問」は、
今と違っているのでしょう。
しかし、いつの時代でも
どこかで「役に立つ」(=自分の実生活で活用できる)
学びこそが、優先すべきことである、
というのは何となく感じます。
■私の話になりますが、
今、私は歴史を世界史や日本史、
また地政学のような、一般的に「教養」と言われるものを
没頭して学んでいます。
それらは、知っておくおくべきものである、
と強く思うと同時に、危険なものでもある、
とも感じます。
どういうことか、というと、
『ただの勉強(知った)で終わると、
何も得ていないことと一緒である』
と思うわけです。
■歴史を知って、日本史を知って、
それを通じて、自分はどのように考えたか?
自分の生きる指針や生き方、
働き方をどう変えようと思ったか?
どのような視点を身につけることができたのか?
そのようにして、
ただの歴史や事実(知識)を、
『自分の智』(知恵)へと昇華させてこそ、
「役に立つ学問である」と言える。
そう、感じるのです。
■福澤諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭で、
こんな言葉を紹介しています。
“「人は学ばなければ、智はない。智のないものは愚かな人である。」
つまり、賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによって
できるものなのだ。”
と。
「学ぶ」とは、役に立てること。
ただ、文字や事実を記憶することでなく、
それを実生活にどう活かすのか。
そういった身のある「学び」を、
どれだけ広く、深くできるのか。
ただ本を読んで満足するのではなく、
意義ある「学び」をしていきたいものだ、
と強く思った次第です。