パスカルの『パンセ』から学ぶ、「成熟した人間」の定義
(本日のお話 3746字/読了時間4分半)
■こんにちは。紀藤です。
昨日金曜日は1件のアポイント、ならびに2件の個別コンサルティングでした。
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また皆様にご意見も聞きつつ、3月までにはこれまでのバックナンバー1800号の公開と、
殿堂入りメールマガジンなどの機能も備えたサイトをオープンいたします。
こちらも楽しみにしていてください!
さて本日のお話です。
先月参加をしたリベラルアーツを学ぶワークショップ、「日本アスペン研究所」。
古典の魅力に目覚めさせられた貴重な時間でした。
今日も、そのワークショップでの「古典の学び」を皆様にご共有させていただきたいと思います
タイトルは
【パスカルの『パンセ』から学ぶ、「成熟した人間」の定義】。
それではどうぞ。
■「人間はひとくきの葦にすぎない」。
これはフランスの科学者・思想家・宗教家であるパスカルが語った言葉です。
少年時代から数学2優れた才能を発揮したパスカル(1623-1662)。
彼は史上初の計算機を考案しました。
また圧力に関する研究も行い、気圧の単位「ヘクトパスカル」にその名を残し、
加えて熱心なキリスト教徒でもあり思想家・宗教家としても 活躍をした偉人です。
そして今回ご紹介する『パンセ』という文集。
これはフランス語で「パンセ=思索や思想」と意味するとのこと。
賢人パスカルが考えた哲学・道徳・政治・精神・言語における、彼の考え方を記した遺文集と言われます。
それでは、そんな『パンセ』には何が書かれているのか。
その内容を見てみましょう。
(以下、引用です)
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幾何学の精神と繊細の精神との違い。
前者においては、原理は手で触れるように明らかであるが、しかし通常の使用からは離れている。
したがってその方へは頭を向けにくい。慣れていないからである。
(中略)
ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。
頭を向けるまでもないし、無理をする必要もない。
ただ問題はよい目を持つことであり、その代わり、これこそは良くなければならない。
というのは、この法の原理は極めて微妙であり多数なので、
何も見逃さないということはほとんど不可能なくらいだからである。
※引用:『パンセ』(著:パスカル)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
、、、とのこと。
■「幾何学の精神」と「繊細の精神」。
なんだか、言葉が聞き慣れない言葉ですね。。。
偉人パスカルに失礼ながら、今風な大雑把な理解をしようとすると、
”理系的なロジカルな考え方 VS 文系的な感覚的な考え方”
に分けることができるかもしれません。
ただ、理系も文系もそもそも後付けであり、そのような分け方は元々はありません。
現にパスカルも、数学者&哲学者であり、どちらも併せ持つ人物です。
しかし、パスカルはこの「幾何学の精神と繊細の精神」について、このように続けます。
(以下引用です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
幾何学者が繊細で、繊細な人が幾何学者であるのは珍しい。
なぜなら幾何学者は、それの繊細な事物までも、幾何学的に取り扱おうとするからである。
(中略)
繊細の精神の人々はそれに反して、こうして一目で判断するのに慣れているので、
彼らには何もわからない命題が提出され、そこへ入っていくために、
あまりに無意味乾燥で、そんなに詳しく見る癖がついていないような定義や原理を経なければならないとなると、
驚きのあまり怖気づき嫌になってしまう。
(ここまで)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■すなわち、頭の傾向として、
「幾何学の精神」と「繊細の精神」というものは、人により偏りがある。
それぞれ、”自分が持っている側の考え方を使おう”とする傾向がある、ということでしょう。
しかし、ここからが非常に興味深いところ。
引き続き、引用をさせていただきます。
(以下引用です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しかし”歪んだ精神の持ち主”は、決して繊細でも幾何学者でもない
そこで幾何学者でしかない幾何学者は、
万事が定義は原理によってよく説明される限り正しい精神を持っている。
さもなければ、彼らは歪んでいて鼻持ちならない。
なぜなら彼らが正しいのは、よく明らかにされた原理に基づく場合だけだからである。
また繊細でしかない繊細な人々には、彼らが世間で一度も見たことがなく、
また全く使用されていないような思弁的観念的な事柄の、
第一原理にまで遡っていくだけの忍耐力を持てないのである
(ここまで)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とのこと。
■つまり幾何学的精神、繊細な精神、
それぞれの特徴を持つもので、それ自体が良い悪いではない。
ただ、歪んだ精神を持っていると、
”幾何学者でも、繊細でもない”という。
私の解釈で言い換えれば、
「良い精神を持っていないと、
幾何学者は、すでにわかっている原理しか認めない。
逆に、良い精神を持っていない繊細な人は、
初めて目にする現象・事象が、なぜ起こっているのかを探求する、
深い思考の忍耐力をもてない。
それはすなわち、どちらも”未熟さ”の象徴のようなものである」
そのように語っているように感じたのです。
■かつ、この「幾何学の精神」と「繊細の精神」の話。
ただの”頭の使い方”だけではなく、
あらゆることに通ずるのだろう、とも思えるのです。
(それこそ、”哲学・道徳・政治・精神・言語のあらゆる分野のパスカルの考え方”のように)
例えば、現代風に言えば、
「仕事におけるスタンス」でもそうでしょう。
”すでにわかっているデータ”だけに頼り、
変化が起こっている現象(繊細さん)を重視しないという人。
これは、”歪んだ精神の幾何学者”ということでしょう。
逆に、”顧客の微妙な声”だけを重視し、
その背景にあるロジックを追求しない、”闇雲な顧客主義”は、
ある意味、”歪んだ精神の繊細な人”となるでしょう。
*
または、「リーダーシップ」でもそう。
論理・理屈だけに頼るコミュニケーションだけでは、人は動かせない。
微妙で見えづらい”機微”を察知できること。それが人を動かす。
しかし、”筋道を通った戦略”もなければ、本当に人を率いることはできない。
このことも、”正しい精神”における、
「幾何学の精神と繊細の精神のバランス」とも言えるのでしょう。
傾向はあっても、偏屈にならず、
そして、”幾何学・繊細さ”の、」どちらも大切にすること。
■数学的に考えることが得意な人(幾何学的な精神)。
相手の気持ちや考えを感じることができる人も(繊細な精神)。
これは、どちらも素晴らしい特質であり、
磨くことによって他者に貢献ができる”強み”でもあるのでしょう。
しかしながら、一番大切なのは、
・自分の傾向に固執しすぎたり
・自分の利益ばかり考えすぎたり
・他者を認めようとしなかったり、
という、「土台となる己の精神」なのかもしれません。
頭は良くても、頭の良さと、
そこから出てくる理論を振りかざして、
相手を論破して、気分が良くなっている人は「幾何学者」ではないのです。
ただの”未熟者”にすぎない。
逆に、気持ちや感覚だけを重視してばかりで
”理論”を探求することを諦めている人も「繊細なだけの繊細な人」にしかすぎない。
どんな考え方を軸にしていても、自分を客観的に見つめ、
幾何学なら繊細の、繊細なら幾何学の、もう一つの精神を大切にすること。
それこそが、「正しい精神」であり、
「人間の精神の成熟」ではないか、、、
そんなことを400年の時を超え、
パスカルから問われているように感じたのでした。
■パスカルはこの後、この言葉を残します。
”人間はひとくきの葦にすぎない
自然の中で最も弱いものである。
だがそれは考える葦である。
(中略)
我々の尊厳のすべては考えることの中にある。
我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、
我々が満たすことのできない空間や時間からではない。
だからよく考えることを務めよう。
ここに道徳の原理がある”
、、、と。
もし、
自分の考えは絶対的に正しい。
普通に考えてそうだろう。
これが当たり前じゃないか。
今まではこれが正解だった、、、
そのように、”枠”にとらわれて思考を停止してしまうのは、
人間が持つ大切な能力を、放棄しているのかもしれません。
人は、あらゆる動物の中で、
自分が死ぬことを認識し、その恐怖の中生きるという意味でも、
最も弱い存在です。
しかし、”考える”ことができる。
今の自分を客観的に見つめ続けることもできる。
何が正しいのかを考え続けることもできる。
このような”人間の力”を、
パスカルのパンセを通じて感じた次第です。
非常に深い話ですので、今日のお話は私の解釈の一つにしか過ぎませんが、ご参考になれば。
ご興味がある方はぜひ本書を読んでみてくださいね。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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<本日の名言>
人間はつねに、
自分に理解できない事柄は何でも
否定したがるものである。
パスカル
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