可謬主義、「自分間違っているかも」のスタンスを忘れない
(本日のお話 2523文字/読了時間3分)
■こんにちは。紀藤です。
昨日は4件のアポイント。
並びに夜からは、
大学院の授業でした。
*
さて、本日のお話です。
4月より大学院に通い始め、
さっそく学びが始まっています。
(ちなみに、こんな大学院に行っております。
https://ldc.rikkyo.ac.jp/)
その中で、
「高校生の課題を
リーダーシップを通じて解決する」
ワークショップをつくる
という(なかなか重たい)
プロジェクトが始まっております。
喧々諤々、下は22歳、
職種も経験も違う幅広い仲間で
意見を交わし合っておりますが
そのプロセスが実に学びになっています。
今日はそんな大学院の学びから
気づきを共有させて頂ければと思います。
それでは早速まいりましょう!
タイトルは、
【可謬主義、「自分間違っているかも」のスタンスを忘れない】
それでは、どうぞ。
■「可謬主義」、という言葉があります。
(なんだか難しいですが、
読み方は、”かびゅうしゅぎ”です)
以下、Wikipediaより引用です。
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可謬主義(かびゅうしゅぎ、英: Fallibilism)は、
「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」
という哲学上の学説。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
とのこと。
■なんのこっちゃ、、、という説明ですが(汗)
平たく言えば、
”『「自分が正しい」と思っていることは、
もしかすると正しくないかもしれない』
という視点を持ち続けること”
を表します。
更に詳しく引用すると、
”可謬主義とは
「経験的知識は、さらに観察をすること
によって修正されうる」ことを理由に、
我々が知識とみなしているものはどれも誤りであることが
判明する可能性があるということを承認することである”。
と述べています。
ということで(?)
シンプルにいえば、
”「自分、間違ってるかも…」というスタンスに立つ”=可謬主義
といえそうです。
■さて、言葉は考え方をピン留めする
ツールではありますが、
いずれにせよ、この考え方
とても大事だよな、感じております。
学びを深める中で
「自分が正しい!」と確信めいて思っていたこと、
そして堂々と語っていたことが間違っていることが
すでに、諸々起こっております。
■例えば、こんな話がありました。
人材開発・組織開発の中で
提唱されている考え方で
『組織の成功循環モデル』
というものがあります。
マサチューセッツ工科大学
ダニエル・キム教授が提唱した話で
「関係の質が、結果の質に影響する」
といいます。
”職場のコミュニケーションを重視することが大事”、
という文脈でよく引用をされています。
おそらくご存知の方も多いでしょうし、
非常にわかりやすく、
私も好きで引用して使っていました。
■、、、ただ、一方、
ある観点では、
こういう反論があることを、
大学院の先生から聞きました。
”「関係の質」が大事とする
『組織の成功循環モデル』は
提唱されている仮説であり
実証研究で証明されているわけではない”
らしい(!)のです。
よって組織開発の専門的な世界で
引用されたりはしない、と。
実際にどこまでが証明されているのか
私はまだ論文などを調べたわけではないですが、
「ああ、自分が正しいと思ってきたことは、
(別の視点から見たら)間違っている、という可能性もある」
と感じたのでした。
■ちなみに実は、
『マズローの欲求五段解説』
なんかもそうです。
これも、人の欲求は下から
・生理的欲求
・安全欲求
・所属と愛情の欲求
・承認欲求
・自己実現欲求
と上がっていく、という説で、
「人間は自己実現に向かって成長する」
と仮定しています。
そのわかりやすさから
多く引用されています。
、、、がこれも、同じ理屈で
研究的視点からすると、
”すべての人間に当てはまるかと言うと、そうではない”
とされており、
一般にはわかりやすさから流行っているが
信頼されているモデルではない、
、、、らしいです。
■なんて、
あらゆるものにイチャモンを
つけているようですが、
「正しい」「正しくない」という
結論を主張したいわけではありません。
”ある意味”といったのは、もちろん
「わかりやすさ」という観点も大事だし、
こう語っている私の話もまた
違っていることもあるわけです。
■ただし、申し上げた
「可謬主義」すなわち、
”『「自分が正しい」と思っていることは、
もしかすると正しくないかもしれない』
という視点を持ち続けること”
によって、
「これまでの経験や情報に囚われすぎずに、
常に新しい情報ややり方にオープンでいられる」
ことは間違いないと思うのです。
■今、大学院のプロジェクトで
チームメンバーと喧々諤々やっていて、
「自分はこうだ!」と思うことがあっても、
他の仲間達が「自分はこう思う」という意見や
こういう視点はあるのではないか、
という意見を聞くと、
「確かにその視点はなかった」
「むしろその通りかもしれない」
と思うことが実に多いのです。
■ただ、それを受け入れられるのは、
「自分が必ずしも正しいわけではない」(=可謬主義)
という前提に立っている事が必要です。
そして、たかが言葉、されど言葉ということで
”可謬主義”というピン留めされた言葉(ツール)を持つことで、
相手の意見を受け入れて、
より良い答えを見つけようとするスタンスを
忘れないようにいられるのだろう、
そんなことを感じております。
■特定の人がその分野で
圧倒的に経験があるとか
あるいはその分野の
専門家中の専門家である、
などであれば、
集団の思考を集結させた結論よりも、
特定の個人の結論のほうが、
正しくなることもあるでしょう。
しかし、原理原則としては
「特に答えがない課題」を解決する場合、
多くの人の視点を踏まえて
課題・問題を特定し、
そして解決策を考えたほうが
様々な角度から考え尽くすことができるもの。
抜け漏れもなくなるし、
合意も取りやすくなるものだと思います。
■だからこそ、
私達個人をみても、
チームでの成果をみても、
【「可謬主義」が、視野を拡げ、
成果を高めてくれるし、成長もさせてくれる】、
そのように感じる次第です。
経験・知識に囚われず、
他者の意見に対して、
常にオープンでいたい、
そのように思った次第です。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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<本日の名言>
人はその好むところをもって、真実とするなり。
デモステネス(古代ギリシャの弁論家/BC384-322)
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