ただ「居ること」が与えてくれること
(本日のお話 2135字/読了時間3分)
■おはようございます。紀藤です。
昨日より読み進めている本で
『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』
(東畑開人/著)
という本があり、
心にぶっささっております。
妻から面白いと言われつつ
1年以上本棚に積読だったこの本。
10-11月の忙しさで
日々の疲れを感じている中で手にとってみて、
大切なことを思い出させてくれたような
そんな感覚を覚えました。
今日はそのお話について、
皆様にご共有させていただければと思います。
タイトルは、
【ただ「居ること」が与えてくれること】
それでは、どうぞ。
■ケアとセラピーに関する本。
タイトルは
「居るのはつらいよ」。
…はて、これ、
どういう意味だろうか?
と見た時に思ってしまいました。
、、、がその理由が実に深く、
納得なのでした。(それは後ほど)
■ちなみにこの本のあらすじは、
京都大学大学院で心理学のハカセ号を取得した
東畑さん(通称:トンちゃん)が、
沖縄の精神科デイケア施設に職を得て
そこでアカデミックな世界と違う、
リアルな現場での体験を綴ったノンフィクションの物語です。
ケアとかセラピーというと
なんだか重たい感じがするかも知れませんが、
著者のユーモアセンス溢れる表現で
漫画を読んでいるような気持ちで
どんどん読み進められます。
■さて、そんな本著の中で、
・ケアとセラピーの違い、
そして
・なぜ居るのがつらいのか
について、
考えさせられる一節がありました。
以下、引用です。
(ここから)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
おれは大バカだ。
なぜ彼女が僕に話を聞いてほしいと言ったのか。
それは彼女がデイケアに「いる」のがつらかったからだ。
だから、彼女はセラピーもどきではあっても、
何か「する」ことが欲しくて僕に相談を持ちかけたのだ。
そうすることで、デイケアに踏みとどまろうとしていたのだ。
(中略)
僕はあのときに、カウンセリングもどきなんかをするのではなく、
二人でデイケアに「いる」べきだった。
一緒に、退屈に、座っているべきだったのだ。
座っているのがつらければ、せめてトランプをやるとか、
散歩をするとか、何かしら一緒にいられることを探すべきだった。
ジュンコさんが求めていたのは、
セラピーなんかじゃなくて、ケアだった。
心を掘り下げることではなく、
心のまわりをしっかり固めて安定させてほしかったのだ。
「いる」のがつらいのは僕だけじゃない。
「いる」のがつらくって、
いろいろな声が聞こえてきてしまう人たちが、
ここに集まってきているのだ。
※引用:東畑開人(2019)『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』.医学書院
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ここまで)
とのこと。
これは、デイケアで出会った
ジュンコさん、そしてカウンセリングのように
介入をしたことでデイケアを離れてしまった彼女について
回想したときのワンシーンです。
■そこに居場所がない、と思うと、
なにかを「する」ことで
自分の存在価値を示そうとする。
そうしなければ、
自分の存在価値を自分で
認めることができない。
ただ、そう思っている人にとって
「いる」のはつらいことである。
でも、本当に必要とされているのは、
それでも
”ただそこに「いる」”
ことである。
たとえ何もなくても、
ただ一緒にその場所に「いる」ことが
傷を癒やすことに繋がり、
自分の足で立つことに繋がる。
■それがケアとセラピーの違いであり、
ただ「いる」という行為で
傷つけずにそっと支える「ケア」と
介入するという行為で
傷に向き合う「セラピー」は違う
というお話。
■そしてこの話を読みながら、
私の新卒の頃の話を思い出しておりました。
(ちょっとした自己開示でございます)
私は新卒で某飲食店に入って
1年半たった24歳になるかならないかの頃、
自分の肉体と精神を疲弊させ、
逃げるように辞めてしまった経験がありました。
その時の自分は深く傷ついており
「俺はなんてダメなやつなんだ」
「最後までやりきれない中途半端なやつだ」
「結局何も続けられないのだ」
…と自分を攻め立てる言葉の
雨あられを自分に降り注がせていました。
■ちなみに、私、
出身は愛知、大学は九州、就職は関東
ですので、会社を辞めて
会社の寮がなくなったら、
関東に居場所はありません。
当時、両親は転勤でタイにいたため、
そこに行くわけにもいかないし、
かといって一人暮らしできる
精神状態でもない。
、、、よって、
私のいないところで母が色々と
話をつけてくれたようでで
東京に住んでいる母の姉妹である叔母の家に
居候することになりました。
■そこには、叔母、
そして小5従兄弟と中1の従姉妹がいました。
それから都営アパートで
同居生活が始まり、4人で過ごしました。
叔母は仕事があるので、
家にいえるのは早く帰ってくる
小5の従兄弟です。
しばらくは仕事もせず、
小5の従兄弟と公園で遊んだり、
ゲームをしたり、時間をともに過ごすことをしていました。
そのとき
「何気ない時間を
何もせずに一緒に過ごしてくれる」
ことに、”癒やし”を感じたことを
覚えています。
その感覚を言葉にするならば、
「自分が何も出来ずとも、
そこにいてくれる人がいる」
ことで、自分の存在意義を
感じる事ができたような感じでしょうか。
■そうすると
疲れて寝そべっていた自分が
腰を座らせて、
そして立ち上がり、
最初は仕事(アルバイト)を探し、
そしてまた就職活動をし、
社会へと戻っていった、、、
と振り返り、思い出します。
そしてリカバリできたのは
”ただ「いる」ことが
自分を支えてくれたこと”
だったかもなあ、、、
とこの本を読みながら、
脳裏に浮上してきたのでした。
■ただ「いる」というのは、
まさに幼子に対しての
母親の行為のようなものです。
おっぱいが必要なときに与えて
おしめを替えてあげて、
世界は安全なところだよ、
呼べば答えてくれるよ、
という”世界観”を作り出すような
土台となるような行為です。
そのような行為が、当人の後の人生に
どれほど大きな影響をもたらすのかは
知られていることでもあります。
■そういった目に見えない仕事を
「依存労働」
(母の役割のように機能的に分けられないもの)
と呼ぶそうです。
しかし、そういった「依存労働」は、
社会的な価値(金銭面において)を
低くおかれてしまう傾向がある。
老人相手の資産運用をしている
投資ファンドマネジャーの時給は高額でも
老人相手の日々のケアをしている
介護ケアスタッフの時給は少ない、
という現状がそこにはあります。
そんなこともその大切さも含めて、
非常に考えさせられるのでした
■心って本当に大事。
そのために「いてくれる人」の存在も
すごくすごく大事。
その価値を改めて
考えさせられた時間でした。
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<本日の名言>
人を高めるのは、苦難でなくて回復である。
クリスチャン・バーナード(南アフリカ共和国の医師/1922-2001)
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