「強み」とはギフトであり、メッセージである
(本日のお話 2806字/読了時間3分)
■おはようございます。紀藤です。
昨日は7件のコーチング。
また夜は5キロのランニングでした。
*
さて、本日のお話です。
コーチングを実施する中で
色々な人の考えに触れて思うことは
「人はそれぞれ
違ったキャラである」
ということかと。
今日はそのお話からの気づきと、
思うことについて皆さまにご共有させて
いただければと思います。
それではまいりましょう。
タイトルは、
【「強み」とはギフトであり、メッセージである】
それでは、どうぞ。
■先日、『鬼滅の刃』の映画が
Netflixでテレビ化されていて、
それを見ておりました。
その中で、ある場面が
心に刺さるとともに、考えさせられました。
(見たことがない方は、何のこと?でしょうが
しばしお付き合いいただければと・・・)
柱(リーダーみたいな人)の煉獄さんという方の
幼少期の回想シーンです。
**
(体が弱く、長く生きられない病床の母が
煉獄さんに言う)
「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか、わかりますか?」
「…わ、わかりません!」
「弱き人を助けるためです。
生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は
その力を世のため人のために使わねばなりません」
「弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。
責任を持って果たさなければならない使命なのです。
決して忘れることなきように」
**
…というシーン。
”生まれついて才に恵まれたものは、
その力を誰かのために使わなければいけない”
というメッセージに、
「いいこというなあ」と深いものを
感じさせられたのでした。
■そんな中で、現実の世界に戻って、
最近のコーチングにおける、私(紀藤)の体験です。
あるマネジャーの方から、
こんなお話を聞きました。
いわく、
「小さい頃から、分析が得意だった。
今も客観的に物事を分析したり
1人で内省をしたりすることを
自然としてしまう」
「また、小説など人の深い心理も好きで
周りの人がこんな事を考えているんじゃないか
と裏の裏まで自然と考えてしまう。
自然とそうしてしまう」
その方のお話を聞いていると、
・他者の感情の動きに対しての
”洞察力”が優れている
・感情に振り回されずに、
冷静かつ客観的に物事を”分析する”ことに
優れている
と思います。
これは「与えられた才能」みたいな
ものだなあ、などと感じます。
(当人はそんな意識はないようですが、
外から見るとその人の抜きん出たところを感じるのです)
■一方、別のマネジャーの方は
こういっていました。
「相手の話を聞いてしまいます。
あんまり高らかなビジョンとか
語れるタイプではない。
ただその人が困っていることや
背景にどんなことがあるのかを聞いて、
それに合わせて対応するのは自然とやりますね」
とのこと。
その方とお話をしていると
・話の聞き方が”共感的”であり、
寄り添ってくれる感じ。
・自分のことを、人として興味を持って
質問してくれる感じがして話したくなる
と思わされる、言葉にできぬ魅力があります。
これまた本人は、
「別に周りに恵まれているだけですけどね」と言いますが、
意外と真似できない
「与えられた才能」だと感じてしまいます。
もちろん、本人の努力もあるけれど
”自然とそうしてしまう”
というところに、
「与えられたなにか」という雰囲気を
感じさせられます。
■そして、ついでの
私自身(紀藤)のことも書いてみると、
何かを説明したり、伝えることは
優れているとは思いません。
でも、
研修プログラムの開発や資料の作成をして
ひいひい言いながらやって、
気持ち的には、ちょっと億劫なこともあるのに、
「褒めていただける」
ことがしばしばあります。
(ほんとまだまだなんですが、、、)
まだまだだと自分の中で勝手に凹みますが、
とはいいつつ一方、
・何か物事を教えたり、説明している時は、
不思議と気持ちが高ぶる
・話をすると自分の中の
”回路”が回転し始めるような感覚がする。
という現象が、自然と起きてきます。
いつからか、と言われると、
いつからだろう、いう感じです。
ゆえに、これも自分で開発した、以上に
「与えられたもの」という側面もあるな、
と感じます。
■…とこれらの話から思うのが、
「与えられた強み」というのは、
1,自然とそうしてしまう
2,自分が大したことない、と思っていても
周りからすごいと言われる(ことがある)もの
3,こだわりがあるがゆえ、
時にしんどい思いをするエネルギーが強いもの
のような特性を持つのでは、
ということ。
そしてそれは、
誰しもがある程度
傾向として持っているのでは、
とも思うのです。
■それらの「与えられた強み」は
生きている社会の文脈によって
有用とみなされやすいもの、
そうではないものに
みなされる傾向は正直あると思います。
成長を求めたり、
大きくなることを求める社会では
”周りへ影響を与えていく”
”発信をしていく、巻き込んでいく”
みたいなことのほうが
優れている、評価される、
希少価値がある
とみなされるかもしれません。
■でも、
”誰かに対して優しい”
”寄り添ってあげられる”
なども間違いなく価値。
社会の文脈が違えば
子供を育てる
誰かを癒やす
支える
ほうがむしろ意味があることにも
十分なり得るとも思います。
■2021の流行語で
「親ガチャ」
という言葉がランクインしたそうです。
曰く、
”運の要素が強いカプセル式自動販売機の「ガチャガチャ」に例え、
子どもが親を選ぶことができないことを指す言葉。
家庭環境などの不公平を嘆くときに使う。 ”
とのこと。
■生まれ持った才能や気質の違いは、
”なぜそうなったのかわからないし
いつそうなったのかもわからない
でも、いつの間にかそうだった”
という意味では、
「ガチャ」みたいなものかもしれません。
数学な得意で、客観的で
分析が得意な人もいれば、
美術が得意で、繊細な感性を持ち、
相手の気持に人一番敏感な人もいる。
初期設定の”ガチャ”みたいなもので、
選ぶことはできないかもしれない。
■ただ、それでも
”なぜそうなったのかわからないし
いつそうなったのかもわからない
でも、いつの間にかそうだった”
ものに、
敢えて意味付けをするのであれば
「与えられたものを、
社会のために活用して生きよ」
という、鬼滅の刃の
冒頭のメッセージのようにも感じてやみません。
それを使って楽しい、
役に立てるという感情を
与えられたのであれば、
それを活用したほうがいい、という
”与えられたギフト”
みたいなもの、
とも捉えられるのかもしれない、、、
などと思ったのでした。
■与えられたものには、
何かの意味があるのかもしれない。
そう捉えて、
「自分がやっていて楽しいことを
どのように社会に役立てられるのか」
という問いに変えて
自分を活かす方法を考えると、
より自分をゴキゲンかつ快適に活用する方法が
見つかるようにも思います。
環境に自分が合わせることや
周りが求めることに
自分を合わせることを、
特に日本では求められがちですが
それだけではない生き方も、
ますます求められるし、
メインになってくるように思います。
自分に与えられたものはなにか。
大きい、小さいよりも
それが何かを考えてみたいな、
と改めて思った次第です。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
本日も皆様にとって、素晴らしい1日となりますように。
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<本日の名言>
雑草とは何か?
その美点がまだ発見されていない植物である。
ラルフ・ワルド・エマーソン(米国の思想家/1803-1882)
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