「ヒロアカの名シーン」で覚えた違和感の正体、そして平等という欺瞞
(本日のお話 1253字/読了時間2分)
■こんにちは。紀藤です。
昨日より、祖父の49日の法事のため
宮崎に来ております。
宮崎もすっかり涼しく、
秋の訪れを感じますね。
親族が集まると、たいへん賑やかです。
(うるさい、ともいえる笑)
*
さて、本日のお話です。
昨日、ふとしたご縁で
読書会をNPO法人として12年間実施されている
同世代の方とお話をさせていただきました。
新しい情報というのは、
他者からもたらされるもの。
自分では手に取らない本や情報も
「お勧めです」と言われて手にしてみて、
新たな視点が手に入るということも
多分にあるものです。
その方から
『「能力」の生きづらさをほぐす』
勅使川原 真衣 (著), 磯野 真穂 (解説)
という著書を教えてもらったのですが
書かれている内容が、
”なんとなく感じていた
教育や評価に関する違和感”
を明らかにしてくれた感じがして
大変感銘を受けております。
(まだ途中ですが)
*
今日はその書籍を読みながら感じたことについて
皆様に共有させていただければと思います。
それでは早速まいりましょう!
タイトルは
【「ヒロアカの名シーン」で覚えた違和感の正体、そして平等という欺瞞】
それでは、どうぞ。
■最近のアニメは、
本当に面白いですよね。
『呪術廻戦』
『鬼滅の刃』
『推しの子』
『ジョジョの奇妙な冒険』
『チェンソーマン』
他多数・・・
現代アニメ描写や表現力は
漫画では描けない世界を見せてくれて、
本当に引き込まれます。
■私(紀藤)の個人的な嗜好では
『僕のヒーローアカデミア』
(通称ヒロアカ)
はかなり好きでございます。
なんというか、
”なんの能力もなかった少年が
努力して、何者かになっていくストーリー”
とか
”限界を越えていく(PLUS ULTRA)”
というメッセージ。
これが個人の琴線に触れ、
思わず涙腺がゆるむこともしばしば。
(というか泣く)
これまでのシリーズも
いちファンとしてガッツリと見てきました。
■そんな「ヒロアカ」ですが、
映画化もされております。
その映画を先日、
アマプラでみていた際のお話。
いよいよクライマックスで
主人公が、ボスを追い詰める中で、
このように言うのです。
**
主人公
「お前は諦めたんだ・・・!
諦めなければ何度もぶつかっていけば、
人と触れ合えたかもしれないのに。
病気とかいって勝手に諦めて絶望して
お前はぶつかる事をやめたんだ!」
ボス「、、、だまれ、だまれぇぇ!」
(そして最後の戦いへ)
**
という場面です。
■おお、そうだそうだ、、、!
諦めちゃダメなんだ!
限界を超えるのが大事なんだ!!
と表面ではグッときて感動している自分を
涙腺付近、全面で感じつつ、
一方、もうひとりの
胸の奥のほうにいる自分は
ある違和感も覚えていたのでした。
それを言葉にするならば、
「とはいっても、このボスのように、
小さい頃から誰とも触れ合えなかったら、
確かに絶望するし、世界に怒りを覚えるのも仕方ないよなあ」
そして、
・「”お前は”それを勝手に絶望して、ぶつかることをやめた」と
ぶつかれなかった理由や責任を、本人に帰属させているのも
ちょっとかわいそうだなあ
と思ったのでした。
なんというか本人(ボス)の
消化できない「かなしみ」のようなものを
勝手に感じている自分もいて、
ちょっとだけもやっとした、というお話。
■、、、いや、わかるんです。
たしかに大事なクライマックスの場面で、
主人公
「いやたしかに、あなたの出自や、
生得的な特殊な能力(相手を弾いてしまう)があったら、
そのように感じるのは、当然のことかもしれない。
だから、あなたに100%、
今回の一連の原因の帰属があるとも思わない。
しかし、あなたが世界の行ったテロ行為は
到底許されるものではない。
人には選択する力があるともいう立場において、
あなたには、責任の一旦がある!」
ボス
「だまれ、だまれぇぇ!」
、、、とはたぶん
ならないでしょう。
そこで「スマ―ッシュ!」と
必殺技を繰り出しても、
あんまりキマるイメージもありません(汗)
■でも、現実世界では
・同じように、
「公平な条件と機会」が与えられており
・ゆえに、本人の能力や努力に
ほぼほぼ原因が求められる
というのが存在している感覚もあり。
だから、主人公の先述の
「お前は諦めたんだ!」
の一言を受け入れてしまうよな、
とも思ったのです。
■さて、ヒロアカのこの場面の違和感。
冒頭にお伝えした書籍、
『「能力」の生きづらさをほぐす』
勅使川原 真衣 (著), 磯野 真穂 (解説)
で、関連するような話が
述べられていました。
それは、
「格差を見えにくくしている社会の仕組み」
ということで、
このように表現されていました。
(以下引用します)
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・「格差の問題」もようやく重要テーマになってきた。
「実際に(もし)格差があるのなら」て言うほどに、
大っぴらには語られてこなかった現実がある。
・この点について、教育社会学では、問いを深める。
その問いは「格差を見えにくくする仕組みがあるのではないか?」。
・その「格差を見えにくくしている仕組み」とは
一見疑いどころがなさそうな「学校教育」ではないか、と考える。
・義務教育はすべからく普及し、教育内容も全国一律で定められている。
日本の教育といえば、平等で公平な印象そのもの。
・ゆえに
「頑張れば、何にでもなれる!機会は平等なのだから、
それを生かすも殺すも自分次第」
「能力に合わせた将来が自分の意志で選べるなんて、
江戸時代ではなく現代に生まれてよかった」となる。
・教育があまりに「平等に」「能力を伸ばすもの」と信じられているがあまり、
もともとある生まれの格差は置き去りのまま、
あたかも公平なレースをしている気満々になってしまっている。
・つまり、平等と信じられている日本教育が
生まれの格差の是正しようという気持ちになりにくい仕組みを
作り上げてしまっている。
※『「能力」の生きづらさをほぐす』P43-44を参考・引用し著者により編集
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(ここまで)
、、、と。
■「平等な機会提供がある」と
信じられるがゆえに
「うまくいかないのは
あなたに能力や努力が足りない」
と個人へ責任を帰する構造になる。
そうとまではいわずとも、
生まれの格差の是正の意欲を生みづらくなる、
、、、これはヒロアカに
繋げて言うのであれば
”ボスの生まれの格差”
をやや軽視しているようにも
思えなくもないな、、、と思ったのでした。
(やや強引ですが苦笑)
■個人への責任だけでなく、
それを生み出す仕組み、
社会システムや構造に
もっと目を向けていく必要があるのだな、、、、
そんなことを
ヒロアカのワンシーンの違和感、
そしてこの著書を読みながら感じたのでした。
■ちなみに、
映画ではなく本編のストーリーでは
主人公が、本編のボス的な人に対して
”小さい頃に負った心の傷に共感をしつつ
それでも相手に対峙をする”
という姿勢を見せています。
ゆえに、
主人公の本当の気持ちは
私が解説で述べた長文の方に、
近かったのであろうと推測しています。
「お前はそれを勝手に絶望して、
ぶつかることをやめたんだ!」
と言ったのは、時間の尺と、
言葉のインパクトを重視した結果なのだろう、
と、勝手に思っております。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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<本日の名言>
すべての人間が、いかなる意識においても、
またどんなときでも、自由かつ平等であり、
そうであったという教義は、まったく根拠のないフィクションである。
トーマス・ハックスリー
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