当たり前を、深く知る
(今日のお話 2256文字/読了時間3分)
■おはようございます。紀藤です。
週末は、友人が主宰をしている、
「たてやま自由学校」なる場所で、
稲刈り体験をしてきました。
鎌を持ち、黙々と稲を刈ったため、
太ももやお尻のあたりが筋肉痛です。
日常ではない体験がゆえに、
色々と感じることがありました。
本日はその内容を共有したいと思います。
テーマは、「当たり前を深く知る」。
では、どうぞ。
■小さい頃、食事のとき、
「お米は一粒残さず食べなさい。
お百姓さんが、苦労して作ったんだから」
と言われた記憶があります。
(皆様の家庭ではどうでしょうか)
私はそう言われていたので、
今も習慣として綺麗に食べていましたが、
「じゃあ、どれくらい大変なのか」
という事については、
深く考えたことがありませんでした。
■しかしながら、実際に
”稲刈り体験”をすると、予想以上に大変。
「お百姓さんが苦労して作った」
という言葉を実感値として感じました。
機会があれば、皆様も
ぜひ体験してみたら面白いと思いますが、
10人で半日かかって、
ようやく10平方メートル程度の刈り取りしかできないし、
苦労して刈った後も、
稲を一束一束、束ねて、
天日干しのために柱にかけたり、
体力勝負の、かなりしんどい作業です。
昔の人は、これを当たり前のように、
黙々と日々行い続けていた。
すごいことです。
■そして、
こんなリアルな実地体験をすると
ふと思うのです。
「こんなに苦労して作るお米。
果たして、稲1本で、どれくらいのお米がとれるのか?
また、稲何本分で、茶碗1杯なのだろうか?」
と。
自分が体験して、
「稲刈りは大変、お米作りは大変」
と思うからこそ、
普段考えないようなことが、
気になってきたわけです。
そして実際に調べてみると、
こんな事実がわかります。
・稲1本で、約70粒のモミができる。
・ちなみに、茶碗1杯で約3250粒。
すなわち、単純計算をすると、
3250粒÷稲1本70粒
= ”稲46本”で茶碗1杯分
となります。
よく売っている米10キロというのは、
これまた計算すると、茶碗約133杯分となり、
稲で計算すると、なんと、
6118本の稲(!)に相当します。
恐らく、これは
私が手作業でやったとき、
半日かかって収穫した量と、同じくらいでしょう。
■そしてこの時、ふと思いました。
毎日のようにみているお米。
よく目にする水田と稲。
しかし、
茶碗1杯分が米粒どれくらいで、稲何本分か、
など考えようと思ったことすらなかったな、
と。
確かに、
これらのことを考えなくても
何ら生活に支障はありません。
お米はお金さえ払えば、
スーパーでもどこでも買えますし。
別に、茶碗1杯分が稲46本分と知らなくても、
米10キロが6118本の稲であると知らなくても、
ご飯は食べることができる。
■しかしながら、
ここで強く思った事は、
「毎日、目にしている”当たり前のこと”こそ知らない」
という事実と
【当たり前を深く知ると、見方が変わる】
ということでした。
例えば、お米なんて、毎日毎日食べ続けて、
30歳の人であれば、ざっくり計算しても
1日2杯×365日×30年 = 65万7000杯
という、とんでもない量を食べているわけです。
でも、そんな当たり前のお米のことも、
否、当たり前のこと”だからこそ”、
深く知らない。
当たり前のことは、
普段目にするからこそ、
疑問に思うこともないし、
知っていると思いがちだからでしょう。
■そして、これはお米の話だけでは、なく、
あらゆることにも通ずると思います。
例えば、
・自分が毎日会っている上司・同僚について
・自分の親・兄弟について
・自分が住んでいる土地の歴史について
・自分の名字のルーツについて
などなど、
身の回りに毎日普通に存在していることこそ、
意外と知らなかったりする。
そんなものではないか、と思うのです。
しかし、
”当たり前のもの”を深く知れば、
違った姿が見えてきます。
稲刈りをして、
「茶碗1杯で稲46本、稲2束分か」
と思えば、茶碗1杯にも感謝する気持ちが
確かに芽生えるし、
「米10キロ=稲6118本分か」
と知れば、それこそ大変な価値に感じます。
同様に、身の回りの当たり前のことを深く知ることで
違って見えてくることも、たくさんあるはず。
当たり前のものこそ、深く知ろうとすること。
そして、その本当の姿をしり、
新たな価値を発見すること。
そんな姿勢を持ち、
日常に新たな発見をしてみてはいかがでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今日も皆様にとって素晴らしい1日になりますように。