「究極の習慣化」のために必要なこと
(本日のお話 2546字/読了時間5分)
■こんにちは。紀藤です。
昨日は3件のアポイント。並びに研修企画の準備でした。
*
さて、本日のお話です。
今日は「習慣化」について、少し思うところを書いてみたいと思います。(共感されるかどうかは不明ですが・・・汗)
それでは、早速参りましょう!
タイトルは
【「究極の習慣化」のために必要なこと】
それでは、どうぞ。
■「100日やると習慣になる」。
そんな話を聞いたことがあります。
ただ、個人的にそうは思いません。
…というのも、100日やったけど、習慣にならなかった(やめてしまったもの)が、筋肉体操、開脚ストレッチなど、かなり多くあるからです。
しかし、あるものだけは「完全に習慣化」されました。そして究極の習慣になっています。そんな継続が絶対に途絶えない「究極の習慣化」とは、もっと自分の存在そのものと癒着した生々しいものである、と(勝手ながら)私は思っています。
今日はそんな「究極の習慣化」の話について、私なりに思っていること、そうなるために必要なことを、書いてみたいと思います。
よろしければ、お付き合いいただければ幸いです。
■メルマガを毎日書いて3636号
さて、偉そうに「究極の習慣化」なんていっておりますが、私がそれが出来ているかは置いておいて、一つ続けていることがあります。それがメルマガです(noteは最近始めました)。
こんな内容の、論文まとめや読書レビュー、内省日記からマラソンの話まで雑多ですが、2000~6000文字、毎日粛々と発信をしております。
※カレッジサプリ・メルマガ
https://1lejend.com/b/HSfoIRnMfw/
正直、内容は大したものではありません。何より誤字脱字が多い(汗)
しかし、毎日発信していると「毎日続けていて、凄いですね」と言っていただけるものです。こう言っていただけることは極めてありがたいなあ、と思い、「いやいや、ありがとうございます」と恐縮しています。
しかし、その後に続く「よくあるお褒めの言葉(と思われるもの)」は、どうしても受け取れず、違和感を覚えてしまうのでした。
■「すごい意志ですね」への違和感
さて、よくあるお褒めの言葉とは、「毎日続けるって、ほんとすごい意志ですね」というお言葉です。
「毎日続ける=すごい”意志”」のコンボ。これが、受け取れない。
繰り返しますが、こういった言葉もありがたいはありがたいのです。しかし、この「続けることが”意志”によるもの」というのが、なんともしっくりこないのです。なので、「ありがとうございます!意志と呼べるのかわからないですが、なんとか続けてます」とお答えするのでした。
そこで、なぜこういう違和感を持つのか? を考えてみました。
結論からすると「『意志』という言葉に含まれると感じる、前向きで主体的な感覚が一切ないから」であるとわかりました。なんとなく「意志」というと「よしやるぞ」と能動的に燃え上がるとか、貫き通すという積極性が含まれている感じがします。
気になって調べると、辞書にはこうありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~い‐し【意志】
1 あることを行いたい、または行いたくないという考え。意向。「参加する—がある」「こちらの—が通じる」
2 目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き。
goo辞書より
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
やっぱり、いずれも「何かを行いたい・行いたくない」「実現しよう」など、”積極的な意識の動き”がある言葉が「意志」のようです。
そして繰り返しますが、この”積極的”とか、”選択をする”というのが、少なくともメルマガを毎日続けることにおいては、しっくりこないわけです。
■習慣に自分が操作されている
じゃあ、どんな表現がしっくり来るのか?
これを考えてみると「意志」でなく「操作」(されている)に近いことがわかりました。より厳密に言えば「習慣に自分が操作されている」という、積極性と逆の「受け身な感覚」です。このほうが今はしっくりくるのです。
ちなみに、メルマガをはじめて、100回くらいは「意志」でした。頑張って続けていこう!という「意志」によって行っていました。
次に、メルマガをはじめて500回くらいのときも「意志」でした。毎日原稿用紙4枚くらい文字を書くことはキツかったので、なんとか奮い立たせてやっていました。そして、1000回くらいになっても、やっぱり「意志」が働いていたと思います。積極的に取り組もう、としていました。
しかし、おそらく1000回を超えて、1500回位になったあたりから「習慣にやらされている(操作されている)」という性質に変化してきました。
「自分の意志」ではなく、「やりたいとかやりたくないとかじゃなくて、やるしかないもの」になります。こうなると「積み重ねてきた習慣に、自分が操作されている」感覚になったのでした。
■「究極の習慣化」は、自分のアイデンティティに組み込まれること
さて、ここまでくると「意志」ではない、という話は当然ながら、突き動かされているものが「恐れ」になってくるのでした。
具体的には「積み上げてきた習慣を止めることによる、自分のアイデンティティが欠損することへの恐れ」です。こういう状態は、積極的でもなんでもなく、「ただやると決まっているからやる」という状態です。「意志が強い」というポジティブな表現とは程遠いところにある気がするのです。
操られているうちに、遠くに来ている
このように習慣に操作されるようになると、自動操縦モードとなります。
飲み会の夜とか、仕事が忙しい一週間など、正直キツいこともままありますが、それでも否応なしに、小さな一歩を積み上げさせられていきます。
1日2日では、微差ですが、1年、2年、3年となると、習慣に操作されないときに比べて、仕事における成長も、自分の内省による気づきも含めて、全く違うものとなるのでしょう。
冒頭の話ですが、習慣は100日やれば身につく、という話を聞きます。たしかに、第1段階はそうかもしれません。
しかし、習慣が完全に自分を操作するほどに大きくなるためには、1000回は打ち込み続ける必要がある。これが私なりの結論です(N=1の感想ですけど)。「やめたら、自分が自分でなくなるのでは」と思うくらいに、その行動習慣を自分の人生に組み込むこと、否、自分と癒着させること。それが、もしかすると「究極の習慣化」と呼べるものなのかもしれない、そんな風に思うのでした。(体育会系すぎて、全然共感を得られないのだろうな、と思いつつ…汗)
これからも、ひいひい言いながら、習慣に操られつつ、日々過ごすのでしょう。まあ、これはこれで楽しみながら毎日生きていきたいと思います。
今日も習慣に操られ、なんとか書いてみた、の巻でした。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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<本日の名言>
弓は使う時には引き絞るが、使わぬときは緩めておくものだ。
ヘロドトス
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