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3702号 2024年4月13日

ある哲学者から学んだ「前提を疑う」という生き方

(本日のお話 2580字/読了時間3分)

■こんにちは。紀藤です。

昨日は、新入社員向けの「プロアクティブ行動研修」の実施。
今回、新しく開発したプログラムでしたが、
皆様に受け取っていただきたいメッセージが届いたようで、安心をした次第です。

これを組織の文化として、しっかり浸透できるよう
続くプロジェクトも尽力したいと思います。



さて、本日のお話です。

最近、強み論文のまとめに注力していることから、「日常の振り返り」的な内容を記述することが少なくなっておりました。

ただ、日々の出来事を振り返り、感じたことを書き出すというのは、実に多くの学びがあるものです。ということで、今日は最近あったお話の中で、印象的だったことについて書いてみたいと思います。

タイトルは

【ある哲学者から学んだ「前提を疑う」という生き方】

それでは、どうぞ。

■ある30代の哲学者
少し前に、ある哲学者(30代)と、教養あふれる人生の先輩(60代)とお食事にいきました。
どちらもそうした呼称に閉じ込めてしまうのには何とも収まらない方。また知人とも友人と呼ぶのも違うような、そんな間柄の方。ただ共通しているのは、どちらも尊敬していることは間違いありません。

その息遣いを感じられる距離で、そんな人と語り合えることは、読書よりセミナーより、遥かに大きなインパクトがあります。

そして、あの夜もそうでした。

男3人、串揚げ屋にてカウンターで並びながら、話をしていました。
話の中心は、主に30代の哲学者の方が中心。哲学者の彼は、何と形容したらいいかわからないのですが、平易な言葉で言えば「非凡」な人です。(天才と言うのもちょっと軽薄な感じがします)

その経歴や実績、学生時代のエピソードもそうですが、積んでいる知力のエンジンが違うことは間違いありません。

歴史や政治に対する理解、人間の思想史への専門知識、芸術への教養、他諸々の知見、
それらの複雑な概念を理解し具体的な言葉にする力、思考の瞬発力、探求する力、信念、、、そんな言葉の枠組みだけで収まらない知性を持たれている方。

人は自分が持たないものに惹かれるといいますが、私は、お会いしたときから、捉えどころがない、理解が及ばないという意味で畏怖にも似た憧れをを抱いていました。

そんな彼ですが、東大卒業後、フランスの大学院にいき思想史研究をされました。到底理解が及びませんが、数ヵ国語を操りながら、ご自身でも査読論文をいくつか出されています。

30代前半とおっしゃっていましたが、思考が深すぎて、まるでずっと年上の大先輩と話をしているような気にさせられます。

■哲学とは「前提を疑う」こと
そんな彼が言っていた言葉が、大変印象に残りました。それが

「哲学って、前提を疑うことですからね」

という言葉。

難しい話でしたが、「メリトクラシー」とか「コンフォルミスム」などの初めて聞く概念を紹介してもらいつつ、今の当たり前を疑うような投げかけをされたのが記憶残っています。ちなみにそのややこしそうな概念の説明はこちら。

~~~~~~~~~
●「メリトクラシー(Meritocracy)」とは:
個人の能力や実績を基に地位や報酬が決定される社会体制または原理のこと。
「知能(IQ)+努力」からなる個人のメリットが、社会的選抜・配分の支配的原理となることを指しています。

●「コンフォルミスム」とは:
個人が社会の規範や期待に従うこと。
これはグループの圧力に対して個人が同調する心理的傾向を示し、社会的な調和や一体感を重視する態度を反映します。
コンフォルミスムは、文化、社会、職場、教育機関など、様々な環境で見られます。
参考:ChatGPTより
~~~~~~~~~

そんな話を派生させ、彼の考えを聞かせてもらいました。
(本当はもっと深い話なのですが、私の理解度の低さから、かなりデフォルメしています。誤解なきようお願いいたします・・・)

・今の世の中は「能力があり、努力できる人」が支配階級として物事を決めていく「メリトクラシー」的な社会体制である。
・また、社会の規範に同調するような空気が支配しており(つまりコンフォルミスム)、それによりどうでも良いものに力を割いているように見える。
・乱暴な言い方をするのであれば「バ◯にゴミを売る」ような市場である。課金をして知性を浪費する商売に人が引き込まれ、そういった市場に人が喜んで投資をする。その傍ら、本当に困っているに意識を向けることはない。
・そうした状態自体が、自分としてはおかしいと感じるし、実際にどうなのか、と自分は思う。
・変えることはできないかもしれない。しかし、少なくとも自分はできる範囲ではあるが、そこに加担はしない。

というようなお話でした。

人は社会の中に組み込まれているので、完全に世捨て人のように生き切ることは難しいかもしれない。
ただ彼は、社会に対して愚痴を述べるのではなく、「自分が納得しないルールについては、少なくとも同調はしないし、そうした選択もしない」という信念に基づいて行動しているところが特徴です。

■ほんとうの自由とは
そして、彼自身は、そうした思想を持っているので、社会や周りと、思考の上で一定の距離をおかれているように見えます。

たとえば、ふるさと納税は、税金の持つ基本的な目的の「分配」違って運用している制度(と考えている)から自分はやらない。食事も贅沢なものは食べる必要はないし質素なものでよい。収入の3割は寄付をしている。

自分が捉えた世界と、それに従う信念に沿った生き方をされている話を聞いて、またそれに貫いている様子に、衝撃を受け、影響を受けている自分を感じたのでした。

そして思ったことは、これが「自由」と呼べるものかもしれない、ということでした。

ぱっと見で、こういう生き方を貫くのは不自由に見えるかもしれない。
でも、思考の上では、彼のほうがずっと自由だと思えます。

彼のような「前提を疑う人」がいて、そうした人から刺激をもらえると、周りの私のような人は、その影響の波紋を受けて、自分のあり方を見つけることになります。
そして、ちょっとだけ楽になれる気がしたのです。

役割が彼と私は違うので、特に私は多少なりとも「教育」に関わる仕事をしている以上、人に伝える必要があります。
そうしたときに、今の当たり前をただ何のフィルターもなく受け入れるのではなく、どういう姿があるべき姿なのかを探求すること、前提を疑うことがが、未来の社会をつくる一員として大切なスタンスなのだろう、、、そんな事を考えさせられたのでした。

気づけば年を重ねて、子どもの未来の社会も考えるようになりました。
自分も、そうした社会の一翼としての役割を担いたいと思うようになったこの頃です。

そして、そんな彼の姿勢から「生き様は人に影響を与える」ことを体感した時間でもありました。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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