消えゆく武士道の歴史から考える、「学び」を継続させるもの
(本日のお話/2147文字 読了時間2分半)
■こんにちは。紀藤です。
昨日は3件のアポイント。
昨日の1日のスタートは、
朝7時から10時半までの早朝打ち合わせから始まりましたが、
朝早く商談もスタートすると1日が充実しますね、
などと盛り上がっておりました。
(S社の皆様、朝からありがとうございました!)
朝7時かの商談なども私は大歓迎です。
もし朝が好きなお世話になっている皆さま、
ぜひ早朝ミーティング、いたしましょう。
そして、夜は恒例の英語塾へ。
ロシアのプーチンの野望について、
語らいました。
*
さて、本日のお話です。
昨日から読み進めていた
『武士道』(著:新渡戸稲造)
を読み終わったのですが、
改めて素晴らしい名作だな、
と大変な感銘を受けました。
1900年、今から100年以上も前に、
あれ程の格調高い英語表現を自在に操る人がいたなんて、
信じられません。
今日も、『武士道』を読みながら考えさせられた、
「消えゆく武士道の歴史から考える、”学び”を継続させるもの」
というテーマで、思うところを
お伝えさせていただきたいと思います。
それでは、どうぞ。
■旧5000円札で有名な新渡戸稲造氏。
世界的な名著である『武士道』を書いた彼は、
熱心なキリスト教の信者でもありました。
そして教育者でもあり、
世界的な宗教観を含め、博学な新渡戸氏。
日本を愛し、その「武士道」という
仏教と神教に育まれた、日本の価値観を知ると同時に、
キリスト教という西洋の考えにも
深く精通している稀有な存在でした。
■そんな彼が、『武士道』の著書の最後に、
こんな言葉を記していました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「武士道は消えゆくのか」
騎士道は封建制から離れたのち、
キリスト教会に引き取られて、
新たな余命を与えられた。
だた、日本の武士道にはそのような庇護する
大きな宗教がなかったことである。
そのため母体の封建制が崩壊すると、
武士道は故事として残され、
自力で生きなければならないだろう。
(中略)
悲しいかな武士道の徳!
悲しいかなサムライの誇り!
鐘や陣太鼓の響きとともに、
この世に迎えられた武士道は
「将軍も王も去る」ように、消え行く運命にあるのだ。
(『武士道』(著:新渡戸稲造)より引用)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、部分的に引用すると、
何だかさっぱりな話に聞こえてしまいますが、
これは何を言わんとしているのか。
要は、
『武士道は、”封建制の廃止””廃刀令”によって、
(システムの終焉によって) 生きられなくなってしまった』
ということ。
■日本人に生まれ育った人なら、
何となくわかると思いますが、
確かに、
”武士道”なるものは存在していた、
ということは知っているし、
感覚的に、”忠義””、切腹”なども、
日本が持つ文化の一つとして
自然に受け入れられていると思います。
しかし、です。
「では、武士道が何なのか、について、
言葉で具体的に説明して下さい」
と問われたとしたら、どうか。
多分、殆どの方が、
答えに窮するのではないでしょうか。
■新渡戸稲造氏の
『武士道』(原書は英語で書かれた)を翻訳した一人である、岬龍一郎氏が、
巻末の解説にてこんな言葉を残しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
武士道は「人の道」、
キリスト教は「神の道」という違いは合ったが、
その根は同根であり、目指す方向も同じだったのである。
決定的な違いは、
”武士道には「神」と「聖書」がなかったこと”
なのである。
(『武士道』解説より)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
武士道とキリスト教。
これらは生まれた文化背景は違いこそすれ、
どちらもそれぞれ大切にされてきた、
”生き方”や”道徳観”を語ってきたものです。
しかし、
「武士道」は明確に言葉にされなかった。
過去の日本に於いて、
脈々と「空気感」のようなもので受け継がれてきた、
”大切な教え”が「武士道」だった。
空気感で伝わってきたものだったからがゆえに、
封建制や廃刀令によるシステムの終焉と共に、
その大切な価値観も終焉を迎えてしまったのではないか、
ということ。
■そして、この一連の話を聞いて、
はたと思ったのです。
大切だけれども、
抽象的で、目に見えないもの、
それが「教え」であり「学び」である。
しかし、「武士道」は言葉にされず、
人々の生活から離れていってしまった。
逆に、「キリスト教」や他の宗教は、
「聖書」「教典」と共に生き続けてきた。
もちろん、一つの要因でしかなく、
それが全てではない。
ですが、”目に見えない大切なもの”を
受け継ぎ、継承するにあたり、
『言葉として残す』
ということは、あらゆることに通ずる、
大切なことではないだろうか、
そのように思ったのです。
■大切な考えや、価値観。
誰かに伝えたい教えや学び。
あらゆる組織や文化、
家庭にも、そのようなものはあるように思います。
しかし、これらのものは、
「空気感」だけで、
人の心に残すのは限界があります。
だからこそ、
『言葉に残す』
ということが重要なのでしょう。
あくまでも推察ですが、
きっと新渡戸稲造氏が、
『武士道』
を言葉として遺したのも、
消え行く大切な文化・魂を遺したい、
そんな意図があったのではないだろうか、
そのようにも思えるのです。
■私達の日常も同じです。
粒感は違えど、人材の育成でも、
きっと、同じ。
学びを残すためには、
『言葉に残す』
ことが与える影響は大きし、
個人の学びでも、復習でも、
『言葉に残す』『書き記す』
ということで、
私達の記憶に、心に残る確率は、
俄然高くなるものです。
大切なことは、
『言葉に残す』。
消したくないからこそ、
何とか形にしようと、努力したいもの。
そんなことを、
「武士道」の歴史から考え、思った次第です。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。