「自己の本質」を発見する、辛辣なプロセス
(今日のお話 1554字/読了時間1分半)
■こんにちは。紀藤です。
今日は敬老の日ですね。
私も、久しぶりに何もなく、
家でゆっくり過ごしたり、
本を読んだりしておりました。
少し前から
『華麗なる一族』(著:山崎豊子)を
読み進めているのですが、読む度に思うのが、
「(一部の)大人とは、なんと恐ろしい」
ということ。
そこで描かれる史実を元にしたストーリーは
・銀行一族の閨閥(娘を政略結婚で利用する)
・感情・愛情より野心・野望、
・目的あらゆるものを利用する、
・利用価値のないものに対する冷酷さ
などなど、
実際あったであろう
生々しき資本主義社会の一端を描くもの。
そのリアリティを想像する内に、
何となく気持ちが暗くなってしまいました(汗)
というわけで、
気晴らしにもっと軽い小説を読もうと思い、
『ユリゴコロ』(著:沼田まほかる)
なる本を読んでみたのですが、
これまた、読みやすさと反比例するごとく、
内容はかなりディープなミステリー小説。
更に、気持ちが重たくなりました(苦笑)
なんとなくですが、最近、
”人間の深い部分(闇の部分)”
なるものに向き合うことが増えてきた、
そんな感覚を覚えております。
(まあ、これも大事なことだと思うので、
良しとしたいと思いますが)
*
今日は、そんな私の個人的な心情も含め、
”「深い部分を語ること」で得られること”
というテーマで、
皆様にご共有させて頂ければと思います。
それでは、どうぞ。
■人には、誰にも言わずとも、
”深く、繊細な心の柔らかい部分”を、
誰もが多少なりとも持っている、
そのように感じます。
先日、こんなことがありました。
私が最近通い始めた私塾「サムライ塾」
に参加した時の話です。
この「サムライ塾」なるもの、
果たして何を学ぶかというと、
”「影響を与えるリーダーシップ」なるものを、
自分自身に矢印を向け、自ら考え、軸を見つける”
とか、
”日本の歴史を学び、これからの未来を考える”
そんなイメージの学びの場です。
ものすごく説明が難しいのですが、
MBAとかそういった類の知識とは対局にある、
ある種の教養を磨く場。
抽象的なテーマで、
一見怪しそうに見えますが、来ている方々は、
外資系コンサルティングファームやら、
誰もが知る有名IT企業やら、
社員を数十人抱える社長やら、
かなり優秀な人が参加しております。
私も友人の紹介で、
つい二言返事で参加することに致しました。
■その「サムライ塾」なるもので、
先日こんな発表会がありました。
それは、
『私は何者なのか?』
という、究極に抽象的な質問について、考え
3分間、聴衆の前で発表する、
というもの。
名刺や肩書に頼らない、
”素の自分自身”
について考え、そしてそれを発表する。
それだけでなく、
聴いている参加者から、発表をした後に、
「曖昧なことがあれば
容赦なく、厳しい質問をする」
ということが決められている場なのです。
よくわからない、
表面を撫でたような抽象的な発表をすれば、
容赦なく追求されるのです。
(なかなか恐ろしい場ですね汗)
そんな中、私も自分なりに考えた、
「私(紀藤)とは何者か?」
について、20名近くが見守る中、
先日の土曜日、発表をしてみたのでした。
■具体的な発表内容は、
長くなりそうなので割愛しますが、
約3分間の私の発表の後、
返ってきた参加者のコメント、質問は、
こんな言葉でした。
「何となくいいことを言ってるけど、
”自分の弱さ”を隠しているようにしか聞こえない」
「言葉が”上滑り”している。
気持ちがのっていない」
「本当に本当に、そう思っているの?」
などなど、
もう辛辣なコメントのオンパレード。
しかし、
「確かに、その辛辣な質問」
に答える中で、
答えに窮する自分、
そしてその過程で、
『自分の中の自己矛盾』
に気付かざるを得なくなったのでした。
■すなわち、
【「自分語り、質問されること」とは、
自己矛盾に気が付く、辛辣なプロセス】
の一つではないか、
そんなことを、
まざまざと感じさせられたのでした。
長くなりそうなので、
続きは明日に続けます。