「冷静と情熱の間」ならぬ、『冷静と諦めの間』を見極める
(本日のお話 1596文字/読了時間2分)
■おはようございます。紀藤です。
昨日は二件のアポイント。
ならびに社内ミーティングや、
「7つの習慣 フォロー研修」の実施立会いでした。
ならびに夜は「サムライ塾」のミーティング。
秋は研修の実施シーズン。
今日も研修が3つで、来週も続々と続きます。
気合いを入れていきたいと思います。
*
さて、本日のお話です。
今、私が学んでいる「サムライ塾」の仲間で、
山岳部のコーチをしている人がいます。
乱気流が吹き荒れる冬の富士山に1人で登ったり(超危険)、
実際に雪山から300メートル以上滑落して九死に一生を得たり、など、
かなり珍しい体験をしている彼。
その彼に、「登山」の話を聞く中で、
「山登りの心構え」について大変興味深い話を聞きました。
今日はそのお話をご共有するとともに、
思うところをお伝えいたします
タイトルは、
【「冷静と情熱の間」ならぬ、『冷静と諦めの間』を見極める】
それでは、どうぞ。
■6000メートル以上の、
誰も登ったことがない未踏峰。
そこは今まで誰もルートを開拓していない、
未知の世界です。
そんな山を登るため、
1年以上前から資金を集め、綿密に計画してきた。
そして、登り始め、一歩ずつ歩みを進め、
ついに5900メートルまで来る。
あと山頂まで、100メートル。
しかし、
体力がない、
ルートがない、
天候が危険である、
そんな状況に立たされたとき、
登山家はどう判断すればよいのか、
岐路に立たされます。
「このまま攻めるべきか、
一旦、ここは退くべきか」
■何ヶ月も、何年も
この日のために準備をしてきたのです。
そしてゴールの山頂は目の前。
何としてでもいきたい。
しかし、このまま歩みを進めると、
命の危険がある。
「何としてでも行きたい。
でも死ぬわけにはいかない。
そんなギリギリの中で、でも、
闇雲に賭けに出ず、冷静に判断をして、
行くか退くかを決めているのが”「山」なんだよ」
こんなことを、山を登るときには常に考え、
決断しているのだ、と登山家である友人は話をしてくれました。
■「挑戦」とは良い言葉です。
私も、大好きな言葉ですし、
この言葉自体は素晴らしいと思います。
でも、むやみやたらに、
勝利の計画もないのに
ただただ闇雲に、飛び込むとしたら。
きっとそれは、
“「挑戦」ではなく、ただの「無謀」になってしまう“
ことになるのでしょう。
「挑戦と無謀は違う」のです。
私も100キロマラソンやトライアスロンに出ますが、
積み上げた努力、練習、覚悟があるからこそ、
その取り組みは「挑戦」になります。
もし、普段から何の練習もせず、
走りもしないで、覚悟もなく
「ただ100キロレースに出よう」
というならば、それはただの「無謀」でしかない、
と思うわけです。
だからこそ、
「冷静と情熱の間」ならぬ、
『「挑戦と無謀」の間。を見極めることが大事である』
そう、思うのです。
■そして、同様に「冷静さ」にも同じことが言えるでしょう。
どうしても行きたい、
本当は諦めたくない、
しかし、ここは退かねば命が危ない、という、
考えに考えた上での
“「冷静」な判断“
なのか、
はたまた、
実は「冷静さ」ではなく、その辛さから逃れたい、
などというような、
“冷静という名の「諦め」“
なのか、ということは、
全く違うものです。
これも同じく、マラソンでも、
「”足”が痛い。「冷静に」考えて、
記録は狙えないからもう歩こう」
は、「冷静」という仮面を被った「諦め」ではないか、
私はそう思うのです。
本当はまだまだ頑張れるのに、
安易に妥協、諦めをしてはいないか。
「冷静」「合理的」、という名のもとに、
力を出すことを惜しんではいないか。
出し切ることを、恐れてはいまいか。
だから、
『「冷静と諦め」の間。を見極めることが大事である』
そんなことを感じるのです。
自分の可能性を開放し、
壁を超え、新たな結果を生み出し続けるためにも、
【「冷静と諦め」の間と、「挑戦と無謀」の間を見極める】
ことが、大変重要である、
そのように思った次第です。