「まだ見ぬ、未知の可能性」を信じてみることが、人生を拓く
(本日のお話 2115文字/読了時間2分)
■こんにちは。紀藤です。
昨日の夜より、茨城の妻の実家に帰省。
諸々やることがあり、先ほど東京に戻ってきて
24時間も滞在できませんでしたが、ゆっくりできました。
余談ですが、車の音の代わりに、
虫の声がする田舎の夜は、とても癒やされますね。
最近、定年後に田舎で農業などをして暮らす人が増えているそうですが、
どんどんテクノロジーが発達し、生活の加速度が増す世の中において、
自然とのつながり、人のつながり、
時間流れをゆっくり感じたい、
テクノロジーは必要ない、最低限あればよい、
そんな人が増えてくるのだろう、と思います。
色々な生き方が選択できる世になることは、
これから起こりうる未来だと感じます。
だからこそ、自分が何に喜びを感じ、
どう生きていきたいのかを考えることは、
ますます大事なことになるのだろう、
と思う今日この頃。
*
さて、本日のお話です。
茨城の妻の実家に帰った理由の一つが、
「義理の母に“とある情報”を伝えること」
でした。
ある情報とは、「リウマチの治療」についての話なのですが、
そのやり取りの流れから、思うことがありました。
ということで、
本日はその話をお伝えしつつ、
【「まだ見ぬ、未知の可能性」を信じてみることが、人生を拓く】
というテーマで、思うところを
皆様にお伝えさせていただきたいと思います。
それでは、どうぞ。
■義理の母はリウマチです。
私もアレルギー(鼻炎、喘息、アトピー)に
悩まされてきた身として、慢性疾患の辛さの一旦、
寛解はすれど、完治はしないことの切なさは、
なんとなくわかる、と思っています。
(トライアスロン、トレイルランも
1日中、日を浴びた後の一週間は、
体が炎症を起して結構大変です 涙)
しかし、リウマチというのは、
それ以上に大変な病ということを、
義母の話を聞き、重々理解したのでした。
義母は、一時期、薬をやめて、
東洋医学にシフトした時がありましたが、
結果、全身が激痛に苛まされることとなり、
布団が触れるだけで、骨が折れたように痛い、
そんな話を語っていました。
今でこそ、薬で寛解をして、
症状は落ち着いているものの、
常に、体に火種を抱えている状態。
そんな矢先、お世話になっている恩師から、
“膠原病(リウマチ)に関する情報”
を知り、その話を共有しにいったのでした。
■そして、私と妻が、
新しく聞いた「治療法」などについて伝えます。
すると、義母は、色々聞いて、
「でも、まあ、
体は今落ち着いているから、大丈夫だよ。」
と答えるのでした。
一方、隣で聞いていた義父は逆。
ひたすら心配しています。
「とはいえ、あの薬の量は多すぎだろう。
他にもいい方法があるんじゃないか?
せっかくだから、他の医者にも見てもらってもいいんじゃないか?」
対して、義母は、
「セカンドオピニオン(別の医者の意見を聞く)は
珍しくなくなったのはわかるけど、お世話になっている医者を
何だか裏切るようで、申し訳ない気がする。」
一方、義父は、
「いやいや、そんなこと言っている場合じゃない、
新しい情報は知るべきだ。何かあってからでは遅い」
と言う。
■そして、このやり取りを聞いていて、
強く思うことがあり、私の意見として、
こんなことを伝えてみたのでした。
ちょっと、人材育成的な話で、こんな話です。
「世の中には、
1,「知っている」、と「知っていること」
2,「知らない」と「知っていること」(=数学、医学、物理学など、知らない領域)
3,「知らない」ことすら「知らない」(=想像すらしない領域)
の3種類がある、と言われます。
“1,「知っている」、と「知っていること」”は
既に知っている知識、治療法、など、ですね。
“2,「知らない」と「知っていること」”は、
「どうやらこういう治療法があるらしい」、
というような「知らないこと」を認識している領域。
ただ、『一番可能性が眠っている領域』とは、
”3、「知らない」ことすら「知らない」“
である、と言われています。
リウマチでも、町医者ではなく、
その種の専門家、世界の先端の人に話を聞くと、
「そんなやり方があったのか」
「今は、そこまで進んでいたのか!」
「無理だと言われていたのに、成功例が実はあったのか!」
という方法があったりするんです。
ただ、自分が「知らない」だけ。
否、「知らない」ことすら「知らない」から、
想像することすらしないし、想像できないのです。
でも、その道の専門家に会った瞬間、
「その道がある」と知ることができる。
未知が、未知でなくなる。
そこ「可能性が眠っている」ことがあるものです」
そんな話をしてみたのでした。
■この話がどれほど、
義母に届いたかはわかりませんが、
上記の話は、実際そうなのです。
世の中の殆どのことは、知らないことだらけ。
知らないことすら知らない領域は、
全情報の99%以上と言われるほど。
一個人、特に一般の人が生きていて、
知っていることなど、たかだかしれている。
だから、
志なんてない、
楽しいことが見つからない、
自分に合う仕事なんてない、
良いパートナーなんていない、
という人でも、
「未知の領域」に足をツッコミまくっていると、
どこかで「心のリトマス紙」が反応したりする可能性は、
絶対にあるのです。
仕事でも、
趣味でも、
人間関係でも、
理想の生き方でも、
”知らないことにこそ、「可能性」が隠れている”
ものなのです。
「まだ見ぬ可能性」というのは
“まだ見ぬだけ”で、どこかにあるもの。
私は、そう思って止みませんし、
そう信じた方が、毎日も希望に溢れます。
挑戦する気持ちも湧き上がります。
だからこそ、あらゆることに対して、
【「まだ見ぬ、未知の可能性」を信じてみることが、人生を拓く】
と信じ、日々歩むことが大切である、
そう強く思う次第です。