人は口先でなく、生き様を見る
(今日のお話 1854字/読了時間2分)
■おはようございます。紀藤です。
昨日にて、山口にて祖母の葬儀が終わり、
夜東京へ戻ってまいりました。
葬儀を経て、何より思ったのが、
知らない親族がかくとたくさんいたのかということ。
まるで4月のクラス替えの直後のような気持ちでした。
祖母の姉妹の孫のような遠縁の方も、
多く来ており、賑やかな、良い葬儀でした。
本日はそんな祖母の葬儀を通じて感じた
「人生における信頼」について、
思うところをお伝えさせていただきたいと思います。
テーマは、
「人は口先でなく、生き様を見る」
それでは、どうぞ。
■通夜の晩(つまり昨日)、父が
「葬儀に参列する人が、
誰だかサッパリわからんだろうから」
という理由で、参列者の関係性を
チラシの裏に「家系図」として書き記してくれました。
そこには、祖母の姉妹の孫、
つまり従姉妹の娘さん、息子さんなど遠縁の方も
葬儀の参列者として書かれていて、
「この人たちも、
ばあちゃんに面倒見てもらったから、感謝してるんよ」
と、言っていました。
その時は、ふーん、そうなんだ、
と思い、聞くにとどまっていたくらい。
まあ、あった記憶も曖昧なので、
そんなものなのでしょう。
■そして、葬儀の今日。
皆で晩御飯を食べながら、
初めて会う(というか会っていても覚えていない)
「家系図」に書かれた親戚の方と話をすると、
「おばさん(祖母)には、本当にお世話になった。
親が離婚して、その後身寄りがないときに、
それこそ、全て面倒見てくれたんです」
とか、
「親がなくなって、大変だったときに、
気にかけて、世話してくれた。
本当に、感謝している」
などなど、祖母の姉妹の娘さんなど、
そんなに近い親族ではない人からも、
祖母を褒め称える言葉を言っていたのでした。
正直、子供の頃の祖母のイメージというと、
羽振りがよくて、ちょっと金遣いが荒いけど、
ゲーム買ってくれたり、
美味いエビフライをくれるばあちゃん、というイメージ。
たから、
今までどんな人生を送って来たのか、
ということは知りませんでしたが、
参列した、遠縁であろう方からも
「自分がピンチの時に助けてくれた」
という恩を口々に語り、
心底感謝している様子がとても印象的だったのです。
「ばあちゃん、なかなかやるじゃん」
失礼な言い方かもしれませんが、
尊敬の念を込めて、素直にそう思ったのでした。
■つくづく思いますが、
調子がいい時や、
表面的に口で良いことをいうのは簡単。
でも、相手がピンチの時に、
本当に手を差し伸べられるのか。
人が見ていない地味な日常で、
どんな行動できるのか。
その部分こそを人はきちん見ていて、
そして、それをその人の生き様、本質として
確かに感じ取っている。
そのことを改めて感じさせられたのでした。
だからこそ、
本当に恩を感じている人に対しては、
その人のことを語る時に、口先だけでなく、
自然と熱がこもるし、本当にそう思っているんだな、
と感じさせられますし、
少なくとも、祖母はそんな生き様を
何人かの人に対して、だったかもしれませんが、
間違いなくしていたのだ、と身内ながら感じたのです。
■そして素晴らしい、と思うとともに、
自戒の念とともに感じさせられることがありました。
それは、裏を返せば、
「調子のいいことを、
調子のいい時に言う人は見抜かれている」
ということも事実、ということ。
しばしば会社の重役とか、偉い人なのに、
その肩書きがなくなった瞬間、
すなわち権力を失った瞬間、
周りから人が引き潮のように引いていく、
そんな話を聞きますが、
実際、そんなことがバンバン起こっているのでしょう。
「偉い人だったけど、
ピンチの時には、何もしてくれなかった」
「いいこと言ってるけど、口だけだった」
もしそんな生き方を積み重ねたとしたら、
きっと自分の人生のフィナーレにて、
人々から口々に感謝の言葉を聞くことも、
残念ながらありえないのかもしれません。
■信頼は見えないものです。
でも、誰もが、その普段の行い、
生き様から、しかと評価をしている。
言っていることとやっていることが一致しているか。
その行動の意図はいかなるものか。
見ている人は見ている。
その人の本質は見抜かれている。
気づかないのは、本人だけかもしれない。
だからこそ、見られているときだけでなく、
毎日の一瞬一瞬を真剣に、
そして感謝されるようなそんな生き方をすること、
綺麗事かもしれませんが、本当に大切なことなのだろう、
そのことを強く感じた次第です。
我が祖母の学びとして、
共有させていただきました。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
本日も皆さまにとって素晴らしい1日になりますように。