「東京タラレバ娘」から考える、口癖の功罪
(今日のお話 1608字/読了時間2分)
■おはようございます。紀藤です。
昨日は、夕方から妻とともに
映画『沈黙 サイレンス』を観に新宿へ。
遠藤周作が史実や歴史的事実を元に
1966年に出版された小説が原作の話です。
江戸初期、1600年に中盤に、
長崎にてキリスト教の弾圧の事実を描き、
「信仰とは何か?」「信念を貫くとはどういうことなのか?」
を考えさせられる、非常に深い話でした。
静かな映画でしたが、
3時間があっという間の話。
歴史や哲学、宗教(特にキリスト教)にご興味がある方には、
かなりお勧めです。
*
さて、本日のお話。
普段あまり(というか全く)テレビドラマを観ないのですが、
最近、「これ面白いなあ」、と密かに思っているドラマがあります。
それは『東京タラレバ娘』というドラマ。
我が姉が「ちょっと気になる」とつぶやいていたのがきっかけで、
ちょっと観てみようかな、くらいだったのですが、
見てみると、これまた、非常に面白い。
今日は、このドラマの話を引用しつつ、
「”東京タラレバ娘”から考える、口癖の功罪」
というタイトルで、
思うところをお伝えさせていただきたいと思います。
それでは、どうぞ。
■この『東京タラレバ娘』というドラマ。
30代前後の独身女性の
あるあるネタを描いているドラマです。
この中の登場人物は、
大島優子、吉高由里子、榮倉奈々が扮する三人の女性。
20代の時は、華やかで、
選択肢もいくつもあって、不安もなかったけど、
いつの間にか恋愛も仕事も選択肢が減っていた、
そんな中、
「もし〇〇だっ”たら”」
「もし〇〇してい”れば”」
と3人でいいつつ、
恋愛や友情について、
様々な事件が起こる、
そんなストーリ-。
と、いうことで、
「東京タラレバ娘」なるタイトルのようです。
■そんなドラマの中で、
あるいい感じになっている登場人物の男性
(若いイケメン 職業モデル)が、
主役の三人にこのように言うのです。
それが、なんだか深いのです。
「女子でもないのに女子会だの、
現れてもいないのにいい男と結婚だの、
なんの根拠もないタラレバ話でよくそんなに盛り上がれますよね。」
「そうやって一生女同士でタラレバつまみに酒飲んでろよ。」
そして、主人公の一人が自分の気持ちを聞こうと
「私のことどう思っているの?」といえば
「自分(の気持ち)はどうなんだよ、
こっちの気持ち先に聞いてから自分の答え出そうとしている。
そんな女とは恋愛できない」
と、斬る。
バサバサと切りまくられ、
さすがにかわいそうな気持ちも覚えるほど。
■私は女性ではないですし、
ドラマの主役になっている層とも違いますが、
なんとなく、主役の女性の気持ちもわかる気がします。
しかし、この男性の言うことが、
至極「正論」すぎて、ぐうの根も出ない、
これが現実だよな、
とやっぱり思うのです。
「タラレバ」いっていても、何もはじまらない。
むしろ過去を振り返りすぎて、
「あの時こうしてればね」
「わかる、わかる!」
となっている時はよくても、
残念ながら、根本的な解決にならない。
主役の女性もそれをわかっているから、
「くそ~、腹立つ!」
となるのです。
■「7つの習慣」的に言えば、
これらの、『タラレバ』の口癖は、
”主体的ではない”
言葉の代表になるそうです。
不思議なもので、
そういう言葉(=あの人が変わってくれ”たら”、環境が変わりさえ”れば”)
を使っていると、どんどん思考も行動も、
”そっちの方”に引っ張られるそう。
これは、脳科学的にも、
事実であるそうです。
すると、ますます
「今」にフォーカスできなくなってしまう。
そして、チャンスを逃してしまう
という結果になるかもしれない。
別に、「タラレバ娘」だけじゃなくて、
「タラレバ男子」だって、
「タラレバおじさん」だって、
「タラレバ・マダム」だって、
同じことが言えるのでしょう。
■口癖は行動に影響を与えます。
言っているときは気持ちよくても、
中期的・長期的に自らを毒してしまっては、
自分のためにもならないし、
根本的にも変わらないのなら、
精神衛生上、よくないはず。
タラレバでの息抜きもよいですが、
「”タラレバ”だけ」では、
やっぱりいけませんよね。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本日が皆さまにとって素晴らしい1日となりますように。