欲望に流されても、それを「自由」とは呼ばないよ
■おはようございます。紀藤です。
先日はお客様へのご訪問。
7つの習慣の研修を通じて、
会社に「自立と協力」の文化を作っていきたい、という話で、
これから全社的な導入として動いていきそうです。
私も、とても楽しみです。
(Hさん、Kさん、よろしくお願いします!)
■では、本日のお話です。
今日のテーマは「自由」について。
突然ですが、私は「自由」という言葉に、
憧れ、ロマン、幸せな響きを感じます。
自由に生きたいし、常に自由な気持ちでいたい。
常々そう思っています。
■そんな中、先日から熟読している本にて、
「自由とはなにか」
について語られていました。
そこで語られている内容によると、
【自由とは、「傾向性」に抗うこと】
である、とされていました。
・・・「?」という感じです。
(「傾向性」というと、何だか聞きなれませんが、
哲学者カントが言った言葉で
「本能的な欲望」「衝動的な欲望」のことだそうです)
■「自由」というと、何だかハッピーで、
緩やかな空気すら感じるのに、
「欲望に抗う」ことを「自由」としている。
しかしながら、
「自由」という言葉について辞書をひくと、
ある意味を含むことを知ります。
”【自由】とは・・・・
自主的、主体的に自己自身の本性に従うこと”
つまり、この観点で考えると、
”「何となく欲望に流されること」が自由なのではなく、
「主体的に自己自身の本性(気持ち)に従うこと」、が自由である”
簡単に言えば、
【欲望に流されていても、それを「自由」とは呼ばないよ】
という意味を持つことに気が付きます。
■「7つの習慣」では、
自分の人生を自分でコントロールできる「主体的な人」は、
【「刺激」があったとき、一時停止して「反応」を選ぶことが出来る】
としています。
例えば、
「お腹が空いた。この菓子パン食べたい」
という衝動的な欲望(=刺激)が沸いたとします。
でも、主体的な人は
「いやいや、ダイエット中だから。我慢我慢」と、
コンビニで菓子パンをとろうとした手を、
ぐっとこらえることができます(=反応を一時停止して選んだ)。
このような刺激には、
「部下がミスをした。叱りたい!」
「友人にイラッとすることを言われた。言い返して、コテンパンにしたい」
というわかりやすいものあれば、
変化球で、
「意見を求められた。でも事を荒立てたくない。
だからとりあえず、同意してしまいたい」
という「好かれたい、嫌われたくないという衝動的な感情」
も「刺激」の一つ。
主体的な人は、そんな「刺激」に対して、
スペースを空けて「反応」を選ぶことができる。
そのように「7つの習慣」ではお伝えしています。
■私たちは、
「できれば自由でいたい」と誰もが願うでしょう。
しかしながら、冒頭にお伝えした
【自由とは、傾向性(衝動的な欲望)に抗うこと】
である、というように、
やってくる「刺激」に対して、
意志もなく何となく流されて、
欲望のままに日々過ごし続けたとしても、
それを「自由」とは呼べないように思います。
「自由」というと、
何だか緩やかでハッピーなもの、
という印象を受けがちかもしれません。
ですが、
本当の自由とは、
”刺激が来たときでも
自分の軸をぶらさず、芯の通った生き方ができること
なのだろうな、と感じます。
そしてそのためには、
自分を律する力を持つことも大切なのでしょう。
■「自由」とは必ずしも楽なものではなく、
しかるべき対価が必要なのかもしれません。
ですが、そんな前提で
「自分にとっての自由とは何か」を考え、
「そのために何ができるのか」を考えてみると、
新たな気付きが生まれるかもしれませんね。
長くなってしまいました。
最後まで長文をお目通し頂き、ありがとうございました。
■本日のお話は、
・「自由」と聞くと、緩やかで、ハッピーな印象を
受けがちかもしれない。
・しかし、ある考えによると、
「自由とは傾向性(衝動的な欲望)に抗うこと」という。
つまり、欲望に流されないことが自由である、と。
・人は、日々色々な欲望がある。
「怒りたい」「菓子を食べたい」「好かれたい」。
・だが、その欲望の奴隷になることは、
自分の生き方の軸を持たないことに等しい。
・同様に「7つの習慣」でも、「主体的な生き方」を出来る人は、
刺激と反応の間にスペースを空けられる、という。
これは欲望に対して、抗う力を持つことと、同様のことを表す。
・「自由」とは必ずしも楽なものではない。
そんな発想を元に、自分の「自由」とは何か、
そのために何が出来るのか、を考えてみてはどうか。
という内容でした。
今日も皆様にとって、素晴らしい一日になりますように。