「社会通念」というゆがんだ鏡
■おはようございます。紀藤です。
先日は「世界の心理学の三大巨頭の一人、アドラー」
についてご紹介いたしました。
相変わらず、アドラーの魅力に取りつかれて止みません。
今更ながらアマゾンで
アドラーに関する本を買い漁っております。
さて、先日のお話は、
・アドラーは「目的論」という理論を主張した。
・「目的論」は、私達が一般的に「当たり前」と思いがちな
ユングやフロイトの「原因論」と相反する。
・「原因論」のカウンセリングは、
”トラウマ”のような過去の原因があり、
今の結果が生んでいる、とする。
・対して「目的論」では、”トラウマなどない”と言い切る。
そしてその理論は、認められている考えの一つ。
・しかし私たちの多くは「原因論」が主流となっている。
そしてその考えが、私たちの可能性を縮めているのではないか。
という内容でした。
今日も続けます。
■すなわち「原因論に縛られていないか?」
というお話だったのですが、
ちなみに「7つの習慣」においても、
【「社会通念というゆがんだ鏡」に気をつけよ】
と著者のコヴィー博士は述べています。
「社会通念」とは、
”私達を取り巻く社会の考え方、人々の意見”
のことを指します。
つまり、”一般的に私達が当たり前だ”、
と思ってしまいがちな考え方のこと。
先日ご紹介した、
「原因論主義」
というのも一つの社会通念でしょう。
■そんな「社会通念」の中に、
”広く世の中に浸透している「3つのパラダイム」(3種類の決定論)”がある、
と言われています。
それは、
1、遺伝的決定論
(例/両親から受け継いだ血のせいで、俺はこんなに短気なのだ)
2、心理学的決定論
(例/両親の育て方のせいだ。幼児期の体験が私をこんな傷つきやすい人間にした)
3、環境的決定論
(例/自分の上司、妻、子供、経済、国のせいだ。政治が悪いから、収入が上がらないのだ)
の3つ、だそう。
■確かに言われてみると、
「なるほどな」という気がします。
実際に、友人などから
「小さい頃のあの経験が影響しているんだよ」とか
「性格的に自分はあがり症だから」と言われると、
「そうなんだね~」と納得しがちではないでしょうか。
しかしながら、このような
”「3つの決定論(パラダイム)」は必ずしも正しいとは限らない”
とコヴィー博士は続けます。
もし正しいとするならば、
極端な話、
”ある同じ環境、経験、遺伝などを持った人は、
全員同じように考え、同じ結果になる”
ことになってしまう。
しかしながら、同じ条件、同じ境遇でも、
「こんな環境だから、仕方ない・・・」と諦める人もいれば、
「こんな環境だから、自分で切り開こう」とバネにする人もいます。
人間は、動物とは違うので、
ある特定の刺激に対して、
皆が皆、同じの反応をするとは限りません。
解釈の仕方が違うことで、
結果は違ったものになる、
”解釈の仕方を選択し、行動を選べること、
これが人間の本質なのではないか”
コヴィー博士は、そう語ります。
■私たちは”当たり前”とされる考え方を、
知らず知らずのうちに身に付けています。
その代表的なものが、
ご紹介した「原因論」や「3つの決定論」など。
しかしながら、
「原因論」や「3つの決定論」のような
”一般的に当たり前”と思われている考え方(パラダイム)も突き詰めて考えると、
「そもそも正しいのだろうか?」と疑問に思う事もできますし、
”当たり前”という視点を変えることもできます。
「原因論」と「目的論」という
2つの考えがある、というお話を冒頭にてお伝えしました。
そして、そのどちらが合っているかはわかりません。
ですが、「目的論」で言われるように、
「環境や遺伝子や過去の経験に、自分の可能性は縛られない」
という考えが当たり前になったらどうでしょうか。
選ぶのが自由なのであれば、
私は変えられない過去や環境に原因を求めるよりも、
「そんなの関係ねえ!」(ちょっと古くてすみません)
と自分の可能性を信じる生き方を”当たり前”にしたいな、
と思います。
人には選択の自由がある。
胸に刻んでおきたいものです。
■今日のお話は、
・「原因論」と「3つの決定論」という話がある。
・世の中で”当たり前”と言われているこれらの考え。
しかしながら、本当にそうだろうか?
・突き詰めて考えると、別の考え方もできることに気が付く。
必ずしも正しい、と言えない考え方があることに気が付く。
・どちらが正しいとは言えないが、
人によって「3つの決定論」によって自分を定義し、可能性を狭めるよりも、
「3つの決定論なんてない」と可能性を広げる考え方を選択した方が、
より楽しく前向きに生きられるのではないか。
という内容でした。
今日も皆様にとって、素晴らしい一日になりますように。