相手の心を動かし変えうるのは、「言葉」ではなく、その人の「存在そのもの」である 、というお話
(本日のお話 1999字/読了時間3分)
■こんにちは。紀藤です。
昨日金曜日は1件のアポイント。
また、これから控えている研修プログラムのコンテンツ開発など。
いつからかわかりませんが、
自腹で色々と学び続けてきたもの(累計1000万円、、、汗)が、
今になって価値になってきているように感じる今日この頃。
「自己投資」の重要性を、時間差を経ながら感じております。
大事なことは、”遅効性”で気づくものですよね。
*
さて、本日のお話です。
そんな「自己投資」の中で、先日参加した
『日本アスペン研究所』というセミナー。
2泊3日で「古典」を学んだのですが、
その内容が非常に濃厚で、未だに胸から離れません。
先日も「夏目漱石」の話を書きましたが、
引き続き、本日も「古典」からの学びを、
皆様にご共有させていただきたいと思います。
タイトルは、
【相手の心を動かし、変えるのは「言葉」ではなく、
その人の「存在そのもの」である、というお話】。
それでは、どうぞ。
■「内村鑑三」という人物がいます。
彼は、1861~1930年に生きた、
日本を代表するキリスト教の思想家です。
彼は、
『代表的日本人』(岩波文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/4003311930/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_9-SqCbF53N1GX
という大変有名な本を書いています。
この本は、
「19世紀初頭、奔流のように押し寄せる西欧文化の中で
日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作」
と言われています。
代表的な日本人として、
「西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮」の五人をあげ,
その生涯を「英語(ここがポイント)」で書いた本なのです。
しかも、当時、内村鑑三は33歳。
そのレベルの高さに驚くばかりです。。。
■さて、内村鑑三はどんな人か。
彼は江戸に生まれ、
そして「少年よ、大志を抱け」で有名なクラークの元で、
札幌農学校にて、キリスト教に入信しました。
そして、その後、彼が23歳のとき(1884年頃)、
私費で渡米します。
そして、そのときに米アマースト大学にて、
『学長シーリー』と出会うのですが、
その際に、内村鑑三は、
「キリスト教に回心をする」
という経験をします。
ちなみに、「入信」したのは、
もっと前の札幌農学校時代です。
でも、心から「回心」したのは、
このシーリー先生と出会った時、と言う。
そのくだりが、非常に興味深く、
私は「教育とはかくあるものだ」と感じずにはいられませんでした。
■以下、内村鑑三氏の著書より引用して、
その「出会い」を追体験してみましょう。
その場面は、内村が『学長シーリー』と初めて会うとき。
内村氏はまだ20代前半。
しかも渡米した後、盗みにあったりして、
人間不信に陥っている、そんなとき。
彼は著書にて、こう書きました。
(以下引用)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
静かに!彼が来る!
なんじの霊魂を彼の罪なき存在の前に立たせる備えをせよ。
彼はなんじの心をただちに見通し、
なんじの真価でなんじを考え、
なんじを彼の弟子と認めることを拒絶するかもしれない。
ドアが開いた、そして見よその柔和さを!
大きながっしりした恰幅、
涙をたたえた獅子のような眼、
異常に強い温かい握手、
歓迎と同情の物静かな言葉―――
いや、これは彼を見るまえに
余が心に描いていた姿、心、人ではなかった。
余はただちに特別の平安を余自身のうちに感じた。
余は彼が非常に喜んで約束してくれたその援助に、
我が身を託した。
余は退出した、そしてその時から
余のキリスト教は全く新しい方向を取ったのである。
※引用:『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』(著:内村鑑三)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■警戒をしていた。
若い、自分のような野蛮人は、
拒否され、打ちひしがれることになるかもしれない。
しかし、出会った時に感じたのは、
全く違う、優しい衝撃だった。
その佇まいで、一気に心を持っていかれた、、、
そう、語るのです。
そして、その後も、
内村はシーリー学長と時間を共にするのですが、
その知識の広さ、深い思慮、全てに尊敬をしつつ、
その上で、こう語るのです。
『それでも、総長先生彼自身にまさって、
余を感化し変化させたものはなかった』
、、、と。
■頭がいいことも大事かもしれない。
ロジックや筋が通っていることが、
重要かもしれない。
尊敬できる肩書や、抱負な知識に
憧れることもあるかもしれない。
でも、人の心に触れる上で、
一番大事なこととは、
そんな理屈や知識ではなく、
【その人の”存在そのもの”】
である、そのことを、
内村鑑三のエピソードから、
強く感じたのです。
「その人の存在そのもの」は見えなくとも、伝わります。
・いかに愛情に溢れているか、
・自分を受け止め認めてくれるか、
・どんな信念をもっているのか、、、
それは見えなくとも、伝わるのです。
キリスト教徒になったのは、
確かに札幌農学校にて、
先輩の影響を受けたからかもしれない。
でも、本当に「キリスト教に回心」をしたのは、
学長シーリー先生との”出会い”だった、
その言葉に、
「人の心が動かされる理由」
のようなものを感じたのです。
■きっと、同じような経験をお持ちの方も
いらっしゃるかもしれません。
”ある人”との出会いが、
自分の心を動かし、人生を変えてくれた。
その人の「存在そのもの」から感じる、
何か強いもので、自分が動かされた。
理屈ではない。
でも、それが真実である。
そう私は感じます。
そして、この話からは私達が、
『人と共に生きるときの姿勢』
を考えさせてくれるように思います。
内村鑑三が、シーリー学長にあったとき、
”大きながっしりした恰幅、
涙をたたえた獅子のような眼、
異常に強い温かい握手、
歓迎と同情の物静かな言葉―――”
と比喩しましたが、
言葉でなく、態度で、表情で、
全身で相手を受け止めてあげること、
そしてその心を持てるよう、
自分を律し、育ててあげること、
綺麗事かもしれませんが、それは、
「究極のリーダーとしてのあり方」
なのかもしれないな、
そんなことを感じた次第。
ということで、
【相手の心を動かし、変えるのは「言葉」ではない。
その人の「存在そのもの」である 】。
そんな普遍的なリーダーのあり方を、
100年以上前の、今と違う時代に生きた偉人のエピソードから、
思い馳せた次第です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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<本日の名言>
他の人の生活のうちに日光をもたらすのは、
日光を独り占めしようと決して思わない人です。
ジェームス・バリー
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