日本最初の100年前の哲学書から考える、「言葉」のコミュニケーションの限界
(本日のお話 2133字/読了時間2分半)
■おはようございます。紀藤です。
昨日は、3件のアポイント。
並びに午後から1件のマーケティングのセミナーへの参加。
そして夜からは、現在学び中の
システムコーチングのトレーニングでした。
*
さて、本日のお話です。
ここ数日、食事をしながら
NHK『100分de名著』シリーズ
を見ているのですが(行儀が悪いかな、、)
その中の「善の研究」(西田幾多郎)を見ながら
昨晩も、妻とともにあれこれ話しをしておりました。
その内容の一部が、
「他者とのコミュニケーション」の上で
とても大切なことだな、とも感じましたので
本日はそのお話について、皆さまに
学びと気付きをご共有させていただきたいと思います。
タイトルは
【 日本最初の100年前の哲学書から考える、「言葉」のコミュニケーションの限界 】
それでは、どうぞ。
■今から100年前に出版され、
日本語で書かれた、
日本最初の哲学書と呼ばれる
『善の研究』(著:西田幾多郎)
という本があります。
同時にこの本は
「難しすぎて読めない」
とも言われております。
しかし累計発行部数は約100万部。
岩波書店の累計ベストセラーの第4位に位置する、
非常に著名な作品(らしい)です。
■私も哲学は結構好きなのですが、
2年ほど前に読もうと買ってみましたが
さっぱりなんのことやら、、、
という感覚を持ち、
ただただ本棚の肥やしとなってしまいました(汗)
■そんな西田幾多郎氏のベストセラー。
読んだわけではないのですが
NHKの番組『100分de名著』にて
全4回で放映されていました。
実際、その本の内容を
私がこの場で要約することは
まだ心と頭の準備ができていないので
また別の機会とさせていただきます。
、、、が、その番組の中で語られていた
一つの話が大変印象的だったのでした。
そのテーマは
『言葉のコミュニケーションの限界』
についてです。
■西田幾多郎氏は
「純粋経験」
(=解釈や経験が入らない、ありのままの状態を体験すること)
の大切さを語っており、
彼の哲学の中心となるキーワードです。
このキーワードについて
東京工業大学の若松英輔教授が、
このように解説していたのでした。
『近代はいろいろなものを、
”言葉の枠”に入れて考えてきた。
言葉を使って、私たちが説明しうるものに
小さくしているのではないでしょうか』
とのこと。
■、、、さて、このニュアンス、
なんとなくわかりますでしょうか。
「言葉」というは、記号であり、
伝達の一手段でもあります。
自分の中にある、時に形容しがたい
思考・感情・感覚を、
半ば無理やり、
制約をもつ「言葉」という記号に置き換え、
組み合わせて他者に伝える。
これが
「言葉を使ってコミュニケーションすること」
だと思われます。
■ただ、それが
書き言葉(文章)であれ
話し言葉(会話)であれ
自分の内側に渦巻く、
複雑な思考・感情・感覚を
100%余すことなく相手に伝えることは
極めて困難な技巧です。
一部の文豪と言われる人は、
それを適切な表現に落とし込み、
繊細かつ解像度が高い思考や感情を、
多くの人に言葉として伝えることができる
「言葉のプロ」です。
でもそれはほんの一部。
そのレベルで言語を操れる人は、芸術の域です。
■文章を書く、
話して伝えることを生業としている人も、
多少明るいところはあるでしょうが、
ほとんどの多くの人は、
”「言葉」というツールを
自分の思考・感情を言語化して
自在に使いこなすことが難しい”
のが現実でしょう。
■今、私もこのように
「言葉について思うこと」
を文章として記述していますが、
本当はもっと色々と思うことがあります。
ただ、言葉にする限界かつ、
他者に受け取ってもらえる表現の限界が、
「このあたりである」というのが、
ここまでの記載内容であり、
普段のメルマガの内容です。
先程、若松教授が解説したとおり、
『言葉の枠は、説明しうる小さなものにする』
という特徴を持つのです。
■そして、なぜこのことを、
熱っぽくお伝えしているかというと
この
『言葉の枠は、説明しうる小さなものにする』
という前提を持っているか持っていないかは、
”相手とのコミュニケーションのスタンスを
大きく変えうるものである”
と考えるからです。
■目の前にいる相手から発せられる「言葉」の裏側には、
膨大なる思考・感情・感覚があります。
それは、時に言葉にしている本人すら気づいていない、
複雑な、地底にあふれるマグマのようなイメージ。
そこから、一部の強い「感情」が湧き上がってきて
そして、その中の更に一部を「思考」として認識し、
それを「言葉」にしているにすぎない。
この感覚を、もし持った上で
相手と対峙するのであれば、
「今、目の前の相手から発せられている言葉は、
相手の深いものを一部表明したにすぎない」
という前提で
相手を尊重し、汲み取ろうとし
コミュニケーションを意識することが
初めてできるようになる、とも思います。
そういう思考がないと、
言葉尻を捉えた表面的な対話になってしまいます。
■すると、
相手の言葉にならない思いを含め
他者の中にある様々なものを想像するアンテナが高まり、
それが
「あの人は分かってくれる」
ということに繋がるのであろう、
と思っています。
■今オンラインでのコミュニケ―ションが、
急激に増えており、相手の言葉の裏の行間を
とても読みづらくなっています。
元来人とのコミュニケーションは、
言葉という枠にはめたものだけではない、
ということを体感している方も多いのではないでしょうか。
そんな流れの中で、
西田幾多郎氏の本を題材に、
『言葉の枠は、(本来のものを)説明しうる小さなものにする』
という前提を持ち、
【「言葉」のコミュニケーションの限界】
を考えて相手と向き合うこと。
このことが、人と対峙する上でも、
もっと大きく言えば、コミュニケーションなど
限定的な枠ではなく、世界を認識する上でも
向き合うべき重要なテーマではなかろうか、
と思った次第です。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
本日も、皆さまにとって素晴らしい1日となりますように。
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<本日の名言>
もし事実と理論が合っていないとしたら、
捨てるのは理論の方ね。
アガサ・クリスティ(イギリスの推理小説家/1890-1976)
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